歌仙兼定

 

本日は「歌仙兼定」についてです。

 

 

いつもお世話になっております

「お菓子の香梅」様から

 

「TV取材の申し込みがありました」と

ご連絡を受けたのは先月のことでした。

 

平成27年5月20日(水)朝日放送系

「スーパーJチャンネル」九州

 

お話しをお聞きしますと

玉名の同田貫、熊本城と共に

我が家の「歌仙拵」を見学するために

 

全国から「刀女子」の皆様が

集まっていらっしゃるとのことで、

これを取材するという企画なのだとか。

 

※同田貫の新事実を発見!詳しくはコチラ

 

また、オンラインゲーム

「刀剣乱舞」ファンの皆様に

熱い指示を頂き、

 

この熊本城「お菓子の香梅」様で

展示しております「歌仙拵」の前が

「特等席」と呼ばれていることも

教えていただきました。

 

この場をお借りいたしまして

「刀剣乱舞」関係者の皆様、

 

また「歌仙兼定」ファンの皆様に

先ず深甚の謝辞を奉りますとともに

 

全国から足を運んでいただいている

多くの皆様にも

心より御礼を申し上げる次第でございます。

 

さて、

このブログを書きました

2015年6月に展示しておりました

「歌仙拵」は現在(2017年1月)、

「昼夜拵」と

入れ替わっておりますことを

お伝えいたします。

 

 

「歌仙兼定」を検索されて

こちらのブログに来られた方

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

 

ありがとうございます。

ちなみに現在の展示写真はこちらです。

 

 

「昼夜拵」歌仙拵と同じく

肥後拵の珍しい作品で

時代は江戸時代のもの。

 

鐺(こじり)

柄頭(つかがしら)などの

肥後金工が「昼と夜」のように

分かれていることから

「昼夜拵」と呼ばれます。

 

 

 

歌仙兼定は

熊本地震の影響もありまして

一度、メンテナンスのために

昼夜拵に入れ替えておりますことを

お知らせいたします。

 

また、いつの日か

歌仙拵を展示できれば幸いです。

 

実店舗

熊本城香梅庵
〒860-0008
熊本市中央区二の丸1-1-2 城彩苑桜の小路
Tel 096-288-0039
営業時間
3月~11月 9:00-19:00
12月~2月 9:00-18:00

 

 

さて、

本日は、店舗にも書いてない、

インターネットでも、

あまり見ることのできない

「歌仙兼定」の魅力を

お伝えできればと思います。

 

 

店舗に行かれた方は

この記事を

スマートフォンで見ていただき

「歌仙兼定」を深く知っていただく

きっかけになればと思います。

 

 

さて

こちらが熊本城・城彩苑にあります

「お菓子の香梅」様の店内で、

 

現在も

香梅様のおかげで

「太田光柾

肥後鍔の世界と武士道美術展」を

常設展示させて頂いております。

 

店内では

香梅さんの美味しいお菓子と

抹茶をいただくことができますので

ぜひ、足をお運びください。

 

太田光柾(真太郎)2010 田毎の月鍔図

 

さて、いよいよ

「歌仙兼定」について

お話させていただきます。

 

せっかくなので

少し長めにお届けいたします。

 

 

まず

 

学研さんから出版されております

「図説  日本刀大全II

名刀・拵・刀装具総覧」という書籍。

もうご覧になった方も多いと思います。

 

最近の書店に行って驚きました。

 

少し前でしたら、刀剣の本なんて

探しても見つからないほど

マニアックで

奥のほうに隠れていた存在が、

 

若い世代の皆様のおかげで

 

うちの近所の田舎の書店でさえも

立派な「刀剣コーナー」が出来ていました。

嬉しいかぎりです。

 

その中でも学研さんの本は

かなり前から出版されてあって

写真もカラーで解りやすく

初心者でも入りやすい本ですね。

 

そんな

「図説  日本刀大全II

名刀・拵・刀装具総覧」を見ますと

名だたる日本刀が並ぶ中で

 

 

「ナンバー01」

一番 最初に一番大きく

しかも「特別付録」の原寸大で特集してあるのが

 

今回のテーマ

細川忠興 所用 「歌仙拵」です。

 

「歌仙拵」に「濃州関住兼定作の刀」

だから「歌仙兼定」と呼ばれております。

 

 

ちなみに

こちらは、永青文庫所蔵の本家「歌仙拵」。

本当に素晴らしいですね。

 

居合道で

いつもお世話になっております

本阿弥先生も「拵は歌仙拵」と

おっしゃっていただき、

まさに

本阿弥家の「折り紙つき」です。

 

刀:銘:濃州関住兼定作(歌仙兼定)

katana mei Nousyu seki jyu

Kanesada saku 「Kasen Kanesada」。

 

拵:腰刻黒漆 研出鮫打刀拵(歌仙拵)

Koshikizami Kurourushi togidashisame

Uchigatana Koshirae「Kasen Koshirae」。

 

 

以下:図説  日本刀大全II

名刀・拵・刀装具総覧より解説

 

銘は「濃州関住兼定作」とある。

兼定(かねさだ)は

和泉守(いずみのかみ)と称し、

 

兼元(かねもと)と並ぶ戦国時代の

美濃国関を代表する刀工である。

 

この刀は細川家二代忠興(三斎)の所持。

片手打に適した、先返った短い寸法や

腰刃(こしば)が室町時代の打刀の

特徴を示している。

 

 

さて、

次は「常石英明先生」による

「日本刀の研究と鑑定」によりますと

 

【関物の特徴】

関の地は「美濃国武儀郡鞍智郷関邑」

と称されていて、飛騨高山方面への

交通の要点に当たり、鎌倉時代から

室町時代にわたっては、

 

豪族土岐氏の支配下にあった土地で

現在の関市を中心として戦国時代

(応仁頃から古刀末期の元亀、

天正頃まで凡百年間)に急激に発展を

遂げているこの地方の刀鍛冶の作品を

関物と呼ぶ」とあります。

 

そして、この「歌仙兼定」の刀匠

二代兼定については

 

俗に「之定(のさだ)」と愛称されている

関鍛冶第一位の名匠です。

 

こちらは定の字の「ウ冠(かんむり)」の

下を「之」の字に切り、即ち「宀に之」の

書体を使用しているので「之定(のさだ)」

と呼ばれている訳です。

 

一般に古刀鍛冶で、例えば後鳥羽上皇の

番鍛冶の昔から刀匠が任官し、允、介、

或は将監などの位階を賜っていますが、

「何々守」と任官名

(この場合は和泉守兼定)の『守』の字を

切ったのは兼定が最初です。

 

一般的には同時代の孫六兼元の方が

「関の孫六」といわれて、

徳川時代以降は兼定以上に

人気を集めていましたが、

 

少なくとも現代の愛刀者間では、

あらゆる点で決して孫六兼元に

優るとも劣るものではないことは

了知している筈です。

 

特に注意したいのは、

孫六兼元の愛用者は

皆 中流級武士であったのに対し、

 

兼定は

一流の武将達の愛刀であり、

「格式が一段上位にある」ことです。

「日本刀の研究と鑑定」より

 

いかがでしょうか?

刀の解説を少しご紹介いたしました。

 

まず実戦にこだわった忠興(三斎)公が

所持していたことを注目したいですね。

 

 

では、次に拵(こしらえ)を

見てみましょう。

 

この鞘(さや)の特徴は「コロ鮫」。

※私も勉強不足で知りませんでしたが、

インターネットを通じて

捲仙先生に教えていただきました。

心より感謝いたします。

 

 

注目すべきなのは

「茶の湯の美意識」が

この「歌仙拵」にあることです。

 

皆様もご存知のように

細川忠興こと

細川三斎(隠居して三斎と名乗る)は

千利休の有力な弟子でした。

 

堺で蟄居する利休を

弟子の中で織部と三斎だけが見送ったと

利休の手紙には記されておりますように

 

忠興(三斎)公の茶道そして

師匠「利休」に対する想いは

誰にも負けないぐらい強かった。

 

だからこそ、この「歌仙兼定」には

利休から学んだ茶道の美意識が

多く含まれています。

 

いや・・・

元から、利休居士と出会う前から

忠興(三斎)公には、

その美意識があったとも考えられます。

 

と言いますのも

細川家の「綿考輯録

(めんこうしゅうろく)」には

 

利休居士と初めて忠興(三斎)公が

出会ったエピソードがあり、

 

その中に

「刀の美意識について」の興味深い

記事があります。

 

それは、九月八日、

忠興(三斎)公が

一色義有を宮津城内において

斬ったという

血なまぐさいエピソードから始まり、

 

この時に使った刀が、

刀匠信長の作で

一名「浮股」とも「波股」ともいい、

尺八寸半の業物で、

 

この刀ができた時のこと

 

忠興(三斎)公が

利休居士に見せると

利休居士は「大変すばらしいできで

私もこの太刀に似たものを所持しています」

といって宿から取り寄せた太刀を

忠興(三斎)公に見せたそうです。

 

すると・・・

この二本の太刀は

肉厚も形も細工も

大変よく似たものであったので

 

利休も忠興(三斎)公も

鑑識眼もさすがであると

互いに讃え合ったといいます。

 

 

「歌仙兼定」は、のちに

熊本県の八代市で

忠興(三斎)公が隠居して指導する

「肥後拵」のいわば

プロトタイプのようなものです。

 

「肥後拵」に茶道の文化が

流れているのは、この「かいらぎ」を含めた

「歌仙拵」の「わび・さび」が

重要な役割を持っていたと考えられます。

 

今だに居合道の全国大会に行きますと

全国の剣士が

武蔵が晩年、肥後で作ったなまこ鍔や

肥後拵を愛用していますが、

 

江戸時代、刀は備前、鍔は肥後、

そして拵は「肥後拵」が人気だったのは

 

秀吉の晩年には罪人として

表舞台から消えた「利休居士」が

 

徳川の時代になると

あの時代に茶人でありながら

秀吉に唯一反抗して切腹をした・・

 

そのことが

平和になっていく時代の武士で

再評価されたことが関係します。

 

また、戦国時代に

あらゆる合戦に参加した

武闘派「細川忠興・三斎」の

実戦へのこだわりと

茶道の「わび・さび」の美学が

 

肥後拵にあり

そのモデルの源流が

この「歌仙兼定」だと言うことを

意識して拵を見ると、また楽しめます。

 

 

さて、実際のサイズの「歌仙兼定」と

私が愛用しております

「肥後拵」を比較してみました。

私の刀のサイズが「二尺四寸五分」。

 

並べますと「歌仙兼定」は

かなり小さく感じます。

 

昔の方は身長が低かったから・・

というのもありますが、実は

 

細川家の居合は「伯耆流」で

片手打ちの刀を使うこともあり短いのです。

 

ちなみに「歌仙兼定」のサイズは

全長:88.5cm、柄長:19.5cm 鞘長:68.5cm

 

鍔は京正阿弥と目されることから

京都で作られたとされます。

 

 

上の写真は「歌仙兼定」に使われている鍔。

京正阿弥の影蝶透かし鍔です。

肥後金工大鑑より

 

京正阿弥は肥後金工の職人達に

大きな影響を与えています。

 

なぜ?肥後鍔が日本一だったのか・・

 

江戸の職人が

 

肥後を憧れて真似た

「江戸肥後」なる金工まで存在するのか?

 

それは、

先程、ご紹介したように

三斎と利休の美学があるから

はもちろんのこと

 

このデザインを作った職人が皆、

京正阿弥と同じく「京都」から

細川家と共に全国の文化を吸収しながら

三斎の指導の元、

肥後(当初は八代市)にやって来た

文化レベルの高い技術者だったからです。

 

 

林も平田も

西垣も甚五も皆、都の文化を持って

八代に移り住んだ職人でした。

彼らの美意識は現代でも受け継がれています。

 

詳しくは武士道美術館のコチラをご覧下さい。

 

残念ながら現在、八代に住まれている人も

この「肥後鍔」という文化を知る人は

限られております。

 

だからこそ、今回、

「刀剣乱舞」の皆様に「歌仙兼定」を通じて

この文化を知ってもらうことが

大きな文化を繋げることになります。

 

八代私立博物館

未来の森ミュージアムに

常設で「肥後鍔」が展示してありますので

こちらも、お問い合わせいただくと

嬉しく思います。

 

 

さて、「歌仙兼定」について

 

失われている「歌仙」の文化、

肥後の文化を現代に受け継いでいる

貴重な後継者。

 

それが

肥後金工の人間国宝だった

故・米光太平さんの弟子で

現在、数少ない肥後金工の掟を知る

菊川輝夫先生(熊本市在住)。

 

 

その菊川先生が

約30年ほど前に作られた「歌仙拵」が

 

現在「香梅」さんに展示してあります

「歌仙拵」です。

 

菊川先生は

「一世一代の大仕事として歌仙拵に挑戦した」

とおっしゃっていました。

 

拵えを漆で塗装する際には、奥様が

漆にまけて、大変苦労されたらしく、

二度と作れないと話されます。

 

縁あって、約30年前に

父が所持することになり、

 

2010年に開催した島田美術館での

「肥後鍔の世界と武士道美術展」にて

菊川先生と「歌仙拵」が

再開することになったのでした。

 

 

もとより私達、

誠心館道場の剣士の多くは

菊川先生の作られた「肥後拵」で

居合道を稽古しておりますので

 

長年、交流があるのですが、

菊川先生が制作した「歌仙拵」は

この1本しか存在しません。

 

 

菊川先生は

米光太平先生からの口伝をもとに

肥後の掟を守りながら

制作されました。

 

また「肥後金工大鑑」などの資料を見たり、

様々な肥後拵を手にして

「サビ付け」の技法を研究して

完成させたとお話しされました。

 

 

さて

 

次に一般的に

36人の家臣を粛正したことにより

36歌仙から「歌仙拵」となった

というエピソードが

どの本にも書いてありますが

 

肥後金工大鑑には

このようにも書いてあります。

 

「この伝説の中に見る36人の首は、

即ちこの兼定の作によって

切られたことになる。

 

しかし、この伝説は、伝説としては

面白いが、政治上の粛正としては

酷に過ぎることであり、

 

一代の風雅人であり、

優れた武将でもあり、且つは政治的手腕も

なみなみならぬものがあった

三斎忠興の行為としては

受け取りにくい。

 

又二代忠利も名誉の誉れがあり、

それ程までに好臣を近付けていたとは

思われない。

 

歌仙と言っても

必ずしも36歌仙には限らず、

16歌仙もあり、6歌仙もある。

例えば粛正があったにしても、

36人は多すぎる。

 

おそらく6人位のところでは

なかっただろうか。

しかし、

この事実は「細川五代年譜」にも

所載がない。

 

これに就いて

村上説は「家臣を多数手討にしたことの

御家の不名誉をかくすために、

幕府への聞こえもどうか」ということで

わざと逸しているものであろうかと

疑っているが、恐らく

これ程の事が例えば藩では

ひた隠しにしても、

幕府に聞こえることは当然で、

御家の不始末として糾弾されることは

勿論であろう。」

 

と・・このように書かれてあります。

 

実際、先程の一色氏の件、

大徳寺で希という首座を斬ったことによる

「希首座拵」の件

ガラシャをチラリ見した庭師を

突然斬った話しなど

とんでもないエピソードがあります。

 

先程の解説にある

例え6人でも斬ったら今の時代

とんでもない話ですが、

時代が戦国という今の常識では

考えられない世界の中なので

真実はわかりません。

 

ただ

味土野の時の忠興公の行動を見るに

世間では誤解の多い彼ですが

調べると、あえて真実を語っていない

こともあります。

「歌仙兼定」に興味のある方は

こちらもご覧ください。

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

味土野(細川ガラシャ幽閉の地)前編

 

 

また、熊本の人は

加藤清正公を神として

今でも誰もが尊敬しておりますが

 

これは、ある意味

細川三斎公が清正公を大切にしたから

こそでありまして

心優しく律儀な面も多数あります。

 

例えば

息子の忠利公が肥後入国にあたって

 

清正公の位牌を先頭に

熊本城の

法華坂から西大手門に向かい、

門前で草履を脱ぎ、

 

敷居をおしいただいて

あなたのお城を

お預かりしますと

深々と頭をさげて天守閣に入り、

 

翌日は清正公の菩提寺本妙寺に

墓参したと言われるのも

三斎公の教育が関係するものと考えられます。

 

 

また、茶道・肥後古流さんの歴史では

織部の家族を受け入れ、

肥後の文化に合流している

細川家の優しさがあり、

これもまた、三斎公の美学だと思います。

 

肥後古流・白水会様 公式サイトはコチラ

 

 

長くなりましたが

「歌仙兼定」の魅力を通じて

様々な歴史をご紹介してまいりました。

 

本当に有難いことで

私が2010年に展覧会をしたのも

 

一人でも多く

「肥後鍔」「肥後拵」そして

「歌仙兼定」の魅力を

知ってもらいたかったことですので

 

このように

オンラインゲームの世界から人気が

広がっていくのは

大変嬉しいことでございます。

 

「歌仙兼定」

その魅力は

時代を越えて後世へと

受け継ぐものであり

 

もともと

武士が戦うための武具から、

芸術として高められた

「武士道美術」というものの中に

私達、人間が永遠に求める

美学があると私は感じております。

 

ゆえに

無双直伝英信流 第20代宗家

河野百錬先生の言葉にある

 

「居合道は芸術である」という言葉の意味も

戦う敵は自分であることの奥深さも

感じられるようになりましたし、

 

名刀のように

どの角度からも美しい姿に

人間としての目標を感じてしまうのです。

 

最近、女性の間で日本刀が注目され、

宝石を買うのと同じように

刀剣を購入する方もいらっしゃるとか。

 

その魅力も私が感じているものと

共通なものかもしれません。

 

また、

刀剣乱舞の世界から

興味を持っていただくことは

とても素晴らしいことで

幅広い世代で

「歌仙兼定」の文化を大切にしたいですね。

 

私も

いつか実際の「歌仙拵」で

居合道を演武してみたいと思いました。

 

長く読んでいただき有難うございます。

多くの皆様に心より感謝します。

 

 

写真:撮影 井上啓ブルックスタジオ

歌仙拵・太田光柾

資料:肥後金工大鑑、くまもと美と匠の400年

吉丸良治編著 熊本日日新聞社、

細川三斎 茶の湯の世界 矢部誠一郎

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1 Comment »

 
  • 山内壽隆 より:

    貴重なお話を興味を持って拝見しました。城彩園での演武が思い出されました。お身体はすっかり治ったみたいでヨカッタですね。自分との闘いに負けないよう、これからも精進します。掲載記事を読んで本当に良かったです。久しぶりに熊本城に行きたくなりました。

 

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