希首座拵と藤原宣貞

 

 

京都・大徳寺を訪れていた細川忠興(三斎)公が 突然、

「希首座(きしゅそ)」という「お坊さん」を斬ったことで

その名前が付けられた「希首座拵(きしゅそこしらえ)」。

 

この部分だけ聞いたら、

 

とんでもない話ですが・・・

 

深い事情があるようです。

 

 

写真は「肥後金工大鑑」掲載の「希首座拵(模造)」。

 

ちなみに「首座(しゅそ)」とは、

禅宗の修行僧の「リーダー」をさす役職名。

 

僧は、制中(せいちゅう)と呼ばれる夏冬の修行期間に

外部との連絡を一切絶ち、修行に集中するそうですが、

 

「首座(しゅそ)」はこの期間、

修行僧のリーダーを務め、他の修行僧とは別に一室与えられ、

一層の修行精進を求められる特別な存在とのこと。

 

 

では、なぜ?

 

そんな偉い僧である「希首座」さんを

忠興(三斎)公が斬らなくてはならなかったのか?

 

 

一説には、

 

「希首座」が丹後一色氏だったと言われています。

 

正確な資料がある話ではありませんので、

お詳しい方は個人の独り言と思って聞き流してください。

 

一色氏は清和源氏、足利氏の一族。

 

足利尊氏が九州に下った時にそれに従い、

尊氏の上洛後も九州の地にあって九州探題となって

戦った武士です。

 

 

ちなみにこちらは、

 

細川忠興(三斎)公が指導した

福岡県、田川の上野焼(あがのやき)の里にあります

「興国寺」。

 

上野焼を見学に行った時に、偶然、

「興国寺」という看板を見つけ、

「興」という文字が細川忠興の「興」と同じだったので

 

これは・・・

 

上野焼で「興国寺」なら、

間違いなく忠興公と縁がある!と思って

訪ねた寺です。

 

ところが、住職にお話を聞いたら、

以外な人物の名前が出てきました。

 

それは「足利尊氏」。

 

 

実は「足利尊氏」が九州に下った時、

隠れた場所が、この興国寺だったとのこと。

 

と言うことは、

一色氏も尊氏と共に、

この場所に身を寄せていたのか・・・

 

または、この場所にいる尊氏と

情報をやり取りしながら九州で戦った。

 

どちらにしても尊氏の「絶対絶命の危機」に共に戦った

勇敢な武士である一色氏は、

足利にとって特別な存在だったと考えられます。

 

 

そして、細川家も足利と縁のある武士。

 

細川忠興公が、この寺を訪れ、

のちに尊楷(そんかい)を招き、

 

この「興国寺」の下に「上野焼」の里を

作っていることなどを見ても

「足利尊氏」への想いがあったと考えます。

 

 

それから時が過ぎ、

細川と一色氏はライバルとなって戦います。

 

そこで

どんな死闘があったのか・・・

現代の我々には想像できない世界が

あったと思います。

 

細川と一色氏は

丹後時代、そして関ヶ原でも戦い、やがて

一色氏は滅亡するのでした。

 

何度も言いますが

戦国時代を現代の感覚で考えることは不可能と思います。

 

細川忠興(三斎)公が 突然、

「希首座(きしゅそ)」という偉いお坊さんを斬った。

 

そこだけ聞くと

ありえない話ですが、

 

一色氏と細川家との

深く長い戦いがあって

 

その事件は起こったのでしょう。

本当の理由は歴史の謎ですが・・・

 

 

写真は「藤原宣貞」の剣。

「藤原宣貞」は

 

この「希首座拵」の刀身の作者と言われています。

 

お世話になっております

「筑前刀剣」さんで拝見させてもらいました。

 

 

寛永十年と書いてあります。

 

肥後金工で有名な「平田彦三」が没する

二年前。(資料:伊藤満先生 平田・志水)

 

肥後象嵌の祖である「林又七」が二十歳。

 

細川忠興(三斎)公と共に

この「藤原宣貞」も「肥後金工師達」も

九州に来たのですね。

 

1633年、

今から380年前の剣が

たった今作られたような輝きで存在する

その芸術が「武士道美術」の奥深さです。

 

 

京都・大徳寺で起こった

「希首座(きしゅそ)」の事件。

 

そんな死と隣り合わせの

現代には理解できない戦国時代に

 

「藤原宣貞」も「肥後金工師」も生きていました。

 

 

ここは大徳寺・高桐院。

細川忠興(三斎)公が創立した寺です。

 

この大徳寺にて事件は起こりました。

 

 

高桐院にあります利休居士の屋敷を移築したと言われる部屋。

 

利休居士が茶をたてた武将の多くが

戦場で亡くなったと言われます。

 

「生きるか死ぬか」

 

そんな明日も解らない殺伐とした時代だからこそ

細川三斎の「茶の湯」も生まれた。

 

戦国の「茶の湯」は宗教か?

それとも「死の盟約」か?

武将が「情報収集する場所」だったのか?

 

「希首座拵(きしゅそこしらえ)」のエピソードは

そんな時代の血なまぐさい話の一つですが、

 

「茶の湯」「肥後金工」を考える時に

私達に深いテーマをなげかけます。

 

 

最後に

 

熊本県立図書館は江戸時代、「砂取庭園」と呼ばれ

「細川内膳家」の下屋敷でした。

 

ここに「内膳家」の鎮守の神刀であった

「希首座」のための「鎮守堂」があるそうで

のちに細川家が大切に祀ったと考えられます。

 

やがて

 

「希首座拵」は

「歌仙拵」「肥後拵」と並んで

 

日本の刀装具の傑作と呼ばれるようになりました。

歴史を知れば知るほど

武士の世界に引き込まれますね。

 

本日は

「藤原宣貞」との出会いから歴史を旅してみました。

 

協力していただいた筑前刀剣様に心より感謝いたします。

 

 

資料:伝足利尊氏像 浄土寺 wikipedia

肥後金工大鑑、伊藤満先生著 平田・志水

京都・大徳寺・高桐院

興国寺 撮影・太田光柾

 

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