福岡城跡・建造物見学ツアー(前編)
本日は
特別に
普段は見ることができない
「福岡城」の文化財をご紹介します。
平成24年12月23日(土)
福岡城跡・建造物見学ツアーが開催。
この日の博多は雪が降り、
と〜っても寒い一日でしたが、
見学ツアーには
大人から子供まで幅広い世代の
歴史ファンが集まり「福岡城」を楽しみました。
ちなみに「武士道美術館」が参加したのは第1班。
この他にも班が分かれて、
時間別に開催するほどの人気でした。
ちなみに
来年のNHK大河ドラマは
綾瀬はるかさん主演の「八重の桜」。
2015年1月6日スタートの大河ドラマ『八重の桜』(C)NHKより
その次となる、
2016年のNHK大河ドラマは
なんと「黒田官兵衛」を主人公にした
「軍師官兵衛(かんべえ)」を制作すると発表されました。
まさに、福岡城は「黒田」の城ということで
早くも福岡城は盛り上がっています。
1600年の関ヶ原の戦いで
手柄を立てた黒田長政は筑前52万石を与えられ、
父の官兵衛(如水)と共に、この福岡に入り、
7年間をかけて福岡城を完成させました。
もともと福岡城のあった場所は
那珂郡警固村の「福崎」と呼ばれていました。
でも、
黒田家がもともと備前国邑久(おく)郡の
福岡(現在の岡山県瀬戸内市)出身だったので
祖先の地を偲んで「福崎」の名を「福岡」に改めました。
黒田家が来ていなかったら
「福岡県」にはなっていないんですね。
前おきはこれぐらいにして
さっそくツアーはスタート。
まずは二ノ丸へ
福岡城の二ノ丸は、
大きく「二ノ丸」、「東二ノ丸」、「南二ノ丸」に分かれ
かなり範囲が広かったようです。
のっけから、
重く暗い話で恐縮すが・・・
写真にある扇の形をした「扇坂(おおぎざか)」付近に
「お綱門(おつなもん)」と呼ばれる門がありました。
その門は
柱に触れただけで熱病に冒されたり、
夜中にうなされたりするといわれ、
恐ろしくも哀れな話が語り伝えられています。
それは寛永の頃、
福岡藩二代藩主
黒田忠之(くろだただゆき)が、
参勤交代の帰りに大阪で遊び、
采女(うねめ)という
芸者を連れ帰りました。
しかし、
家老にいさめられて、お側役(そばやく)の
浅野四郎左衛門(あさのしろうざえもん)に預けることに・・・
浅野にはお綱という妻と幼い2人の子供がいましたが、
采女(うねめ)に心を奪われた浅野は、
妻子を顧(かえリ)みなくなってしまいました。
簀子町(すのこまち)の本宅に
采女(うねめ)を住まわせ、お綱と子供たちを
箱崎の下屋敷に別居させて、
はじめはしていた月々の仕送りもだんだんとしなくなりました。
貧しい生活にやきもきしたお綱は
「せめて娘の4歳のひな祭りには何か支度を」と
本宅に下男を送ります。
ところが、出てきた采女(うねめ)に
けんもほろろに追い返され、下男はお綱に申し訳ないと思い
箱崎松原で自害しました。
これを知って、お綱は狂乱します。
2人の愛児を刺し殺し、なぎなたを携え浅野家に走りますが、
夫は登城していて留守。逆に、屋敷にいた浪人の
明石彦五郎に切りつけられてしまいました。
それでも一太刀と、お綱は髪を振り乱し、血に染まった
体をなぎなたで支えながら、夫のいるお城へ。
しかし、城門にたどり着くと同時に、
門に手をかけたまま息絶えたといいます。
今では石垣しか残っていないこの場所に
こんな悲しい話があったことを
福岡に住んでいる人でも知っている人は
少ないと思います。
皆さんは知っていましたか?
とても悲しい話ですね・・・
私達が居合道を稽古しておりますのは、
この福岡城の裏にあります護国神社。
身近な場所だからこそ、
この話を知ってショックでした。
さて、
気持ちを戻して
ツアーを続けます。
二ノ丸から表御門跡を抜けると、
いよいよ福岡城の中枢である本丸となります。
ちなみに表御門は大正7年(1918年)に
黒田家の菩提寺である
崇福寺(博多区千代)に移築され、
現在まで同寺の山門として使用されています。
それがここ。
博多の崇福寺。
この門が表御門。
城内にあった時と違い下見板張りになっています。
余談ですが、
崇福寺には博多の豪商「神屋宗湛」ゆかりの茶室で
国宝の「湛浩庵」もあったそうです。
残念ながら、アメリカ軍の空襲で焼失しました。
またまた余談ですが
頭山満氏の墓も崇福寺にあります。
さて、
福岡城ツアーに戻ります。
次に向かったのが、祈念櫓(きねんやぐら)。
この中は普段は公開されていません。
この櫓(やぐら)は、大正7年(1918年)に、陸軍省から
払下げられ、北九州八幡東区の大正寺境内に移築、
観音堂として使用されていました。
そして昭和58年(1983年)に、同寺より福岡城の
旧位置に戻されました。
家紋入りの瓦。
よく見ると
この瓦の部分だけが
「梅のデザイン」になっています。
さっそく、
普段は見れない内部に入ります。
今では天守閣も何もない福岡城だけに
新鮮な感じがします。
大正初期の撮影と推定される写真の祈念櫓を見ると
下見板張り、白漆喰の壁、
軒先を方杖と軒桁で支える二層の櫓となっており、
復元された現在の祈念櫓とは
著しく外観が異なっており、別の櫓かと思われるほどですが、
福岡城から大正寺に移築された祭に
大幅な改変を受けたと考えられています。
中はお寺に使用されていた時代の文字が残され
襖にも絵が描かれていました。
福岡城の特徴として、
47ともいわれる多数の櫓があったことが挙げられますが、
現存しているのは、この櫓ほか、
のちほど紹介します「多門櫓」や解体保存中の「潮見櫓」など
数えるほどになっています。
そて、続いては
本丸跡・天守台へ。
本丸・鉄(くろがね)門跡です。
天守台の前にあり、防御の為の門です。
幅はわずか1mほどで、門をくぐると通路は
鍵の手に折れて大天守台へと続きます。
大天守台には、
東西6列、南北9列の礎石(42個)が残されています。
これは観光のために制作された
福岡城のCGです。
このような立派な天守があった!
いやいや
徳川家から
謀反の疑いをかけられないために
最初から天守の建造は計画されていなかった!
とも言われ
謎の多い城郭の一つとして歴史ファンが注目する城です。
ただ、この武具櫓跡には
天守台南側に面する南二ノ丸の庭を囲む様に、
東三階櫓から西三階櫓の間に連なる
長屋式の二重二階の櫓があり、
戦いに備えて武器が格納されていました。
浜の町の黒田別邸に移築されたものを撮影した
貴重な写真をガイドさんが見せてくれました。
天守台に登りました。
ここからは福岡タワー、Yahooドームが見えます。
実は、今見えている街がある場所は
黒田長政より以前は海があり、
埋め立てられた場所なのです。
もともと
この付近には遣唐使の時代から
「鴻臚館(こうろかん)」とよばれる
海外交易の施設がありました。
「鴻臚館(こうろかん)」は平安時代に設置された
外交および海外交易の施設。
福岡城周辺のエリアは
この「鴻臚館(こうろかん)」時代から
政治の拠点として使われていたのです。
参加者も歴史のロマンを感じながら
福岡の風景をながめていました。
数百年後に福岡の街がこんなに変わるなんて
如水も長政も思わなかったでしょうね。
さて
福岡城跡・建造物見学ツアーは
後編へと続きます。
参考資料:WIkipedia 黒田如水 如水居士画像(崇福寺蔵)。
NHK大河ドラマホームページ。福岡城内観光案内資料他。
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