味土野(細川ガラシャ幽閉の地)後編

味土野(細川ガラシャ幽閉の地)前編はコチラ

 

細川ガラシャ幽閉の地

「味土野」。

 

 

憧れの地「味土野」に行くために

私達が「タクシー」に乗り換えたのには

理由がありました。

 

 

それは・・・

 

 

バスが通れないほど

狭く、険しい道を行くからです。

 

いったいどんな道なのか。

さあ、いよいよ乗り換えです。

 

 

 

 

私達は何人かに別れて

タクシーに乗り、

「味土野」を目指します。

 

 

 

 

 

途中、

 

運転手さんが

 

「ガラシャ米」という

美味しい「お米」があることを

教えてくれました。

 

 

 

 

味土野の地を経てそそぐ野間川。

 

そんな野間地域の「コシヒカリ」は

野間川の清流だけで栽培された

「特別なお米」で

 

「天の恵み  ガラシャ」という名前で

販売されているとのこと。

 

この「味土野の地」に

忠誠を尽くす者たちが育てた「お米」で

大変、人気があるそうです。

 

 

 

さらに

タクシーは進みます。

 

 

「味土野」の観光について

運転手さんに聞いてみました。

 

 

よほど歴史に興味がなければ、

わざわざこのような

山奥に訪れる旅行者はいない

とのこと・・・

 

こんな大人数で訪れる私達が

いかにマニアックかと思いますが(笑)

 

本物をこの目で見ることが大切です。

 

 

それにしても

旅行者もですが

 

私は、こんな山奥に

人が住めるのか?

とも思いました。

 

実は、ここには以前、

40ぐらいの人家が点在し、

現在も少しだけ

人が住んでいると言います。

 

 

写真は昭和11年当時の味土野。

(細川忠興夫人隠棲の地

記念碑除幕式記念の絵葉書より)

 

この写真には民家がありますが、

 

昔からの

生きる知恵がなければ、

この山奥での生活は

できないのではと感じました。

 

この方達もガラシャさんを

守っていた人達の末裔なのでしょうか。

 

 

さらに

この写真は「野間分校」の

屋根の雪おろしを撮影したもの。

 

かなり雪が積もっています。

 

もちろん自然が豊かで

素晴らしい場所とは思うのですが、

 

とくに冬の季節は

食料品や衣料などの買い物、

病気した時など

どうしていたのだろうと

疑問に思いました。

 

 

 

いろんなことを考えながらも

さらにタクシーは進み続けます。

 

山頂までの道は

舗装されていますが、

 

途中から車一台が

やっと通れるほどの道幅。

 

 

 

 

これで対向車が来たら

離合できるのかな?

 

と心配になるほど

狭くなってきました。

 

 

 

 

 

そして窓の下を見ると・・・

 

 

 

 

 

おいおい

 

谷底 深すぎ!

 

大丈夫?

 

と思わず、

ツっこみ入れてしまうほど(笑)

 

しかも

ガードレールも

なくなってきた。

 

 

 

それでも普通に

タクシーは進みます。

 

それにしても

 

この道を

細川ガラシャさんが

馬か、歩きか

 

下から上がって来た?・・・

 

車でも、こんなに時間が

かかっているのに

あの時代、

どれだけ大変だったでしょう。

 

 

やはり、味土野の歴史や文化を

理解していなければ

幽閉はしていないと実感しました。

 

ただ、適当に味土野という場所を

選んだわけではない。

そう思います。

 

さらに、

 

細川忠興(三斎)公も

味土野に来ていますから、

 

この道を通っている。

 

ガラシャさんを本当に

愛していなかったら、まず

この道を行こうなどとは

ぜったい思わないでしょう。

 

 

 

こんな過酷な道が当時は

舗装されてないでしょうから。

 

いやいや、

 

古代から何かがあって

道はちゃんとあったのか・・・

 

人が住んでいたのだから

道はあったのでしょうね。

 

それにしても謎が多い。

 

 

さて、

 

そもそもガラシャさんが

ここに幽閉された理由は、

お父さんの謀反でした。

 

 

なぜ?

明智光秀は信長を

殺さなければならなかったのか・・

 

日本史最大のミステリーです。

 

ガラシャさんも

忠興公もそう思ったと思います。

 

 

あの「本能寺の変」があった時、

秀吉は備中高松城で毛利の大軍に

釘付けになっていました。

 

信長の次男「信孝」と

丹羽長秀は四国出陣の直前で

大阪にいる。

 

さらに柴田勝家は越中で

上杉景勝の軍勢と戦っていた。

 

その時、京都付近にいたのが

明智光秀でした。

 

 

 

信長はわずか50人ぐらいの

部下をつれただけ、

 

日本を代表する名物

 

初花肩衝(はつはなかたつき)、

裕乗坊の富士茄子、

法王寺の竹の茶杓などを

手に入れた信長は

 

天下統一を目前に

幸せの絶頂だったと思います。

 

そこに

まさかの明智光秀が襲撃。

 

 

親戚である細川家でも

何がおこったか解らない。

 

 

この時、幽斎公は

 

今出川相国寺門前の私宅にて

本能寺の変を

早めに知り、

 

「早田道鬼斎」という

浪人に託して

丹後へ遣わせます。

 

道鬼斎さんは宮津までの

約60キロメートルの距離を

 

なんと!

6時間で走破し、宮津城に到着。

 

松井、有吉などの細川軍団と

忠興公が

 

本能寺の変を早めに

知ることになりました。

 

このスピードのおかげで

光秀からの使者よりも先に

細川家が「本能寺の変」を

知ることになったのです。

 

だからこそ、

冷静に情勢判断を行い、

ガラシャさんを

「味土野に幽閉して助ける」

というアイデアが浮かんだと思います。

 

 

ちなみに

 

これは細川忠興公が

晩年に住んだ熊本県の八代にある

織田信長の供養塔。

 

学校の校庭にあり、

熊本の人でも知る人ぞ知る場所です。

 

3年ぐらい前に撮影したものですが

この、すぐ裏の屋敷に

忠興公は住んでいました。

 

忠興公が

生涯、織田信長を

供養していたことがわかります。

 

それだけ忠興公にとっても

大切だった信長を

 

義理の父が

殺害するという大事件。

 

判断は悩んだと思いますが、

それよりも

ガラシャさんを助けること

 

そして細川家の未来を考え

冷静に行動した

忠興、幽斎 親子の判断は

凄いとしか言いようがない。

 

 

そんな状況の中で

突然、「味土野」へ幽閉する

と言われた「ガラシャ」さん。

 

記録では

一色宗右衛門などの

忠興公の腹臣数人に守られ、

味土野にむかったとあります。

 

心細く不安で

いっぱいだったでしょう。

 

 

 

その彼らが実際に通った道を

430年後の今、私達が通過中です。

 

歴史を知り、想像すれば

感動も増えます。

 

日本史の教科書では

■織田信長は家臣の明智光秀に

殺され、天下統一できなかった。

 

ぐらいで表現されてるかもしれませんが

 

そんな2行では入りきれない

ドラマが「味土野」では

おこっていました。

 

 

 

そして

 

私達の乗ったタクシーは

 

いよいよ到着。

 

 

 

 

 

当然、

タクシーの運転手さん達には

ここで待機していただきます。

 

もしもタクシーが

帰ってしまったら・・・

 

私達が「幽閉」状態になりますので。

 

少し待っていただいて

現地に行ってきます。

 

 

 

 

 

 

ここが

 

 

「味土野」・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

360度

どの方向を見ても

人工的なものを見ない。

 

古代からあるような

自然の風景。

 

四方を山に囲まれ、

まさに「幽閉」という言葉が

ふさわしい場所。

 

 

 

何か看板があります。

 

近づいて見てみましょう。

 

 

 

 

 

 

この看板の場所が

写真にある現在地。

 

この上の丘に

ガラシャさんが住んでいた

屋敷跡があるようです。

 

ここを昔は

女城跡と呼んでいたようです。

 

そして

井戸というのが

 

これですね。

 

 

今は、コンクリートの

蓋で閉じてあるようですが

 

この井戸の水を

細川ガラシャさんが飲んでいた

 

そう考えると

すごい・・・

 

 

 

この女城跡から

 

少し離れた場所に

「男城跡」という場所があり、

 

こちらに

細川家の武士が

ガラシャさんを守って

いたようです。

 

 

京丹後市の

観光用の「のぼり」を発見。

 

やはり、ガラシャさんを

訪ねて来られる方が

いらっしゃるんですね。

 

と言うことは

 

この上に「女城跡」がある。

 

 

 

 

ゆっくり進みます。

 

この道を

ガラシャさんが歩いた・・・

 

 

戦国時代から

ほとんど変わっていない自然。

 

 

ガラシャさんにとっては

「悪い夢を見ているのではないか?」

と思ったかもしれません。

 

忠興公との楽しい生活、

天橋立の美しい景色、

優しかった父「光秀」。

 

それが今は何もない。

 

 

 

悲しかったでしょう。

 

この木は

知っているのか?

 

あの当時、

生きる望みを奪われた

幽閉の生活を。

 

 

 

彼女は、この土を

踏みしめたのか。

 

 

行動範囲も限られたから

この道を何度も歩いたはず。

 

 

そして

 

ついに私達は

 

 

「細川ガラシャ隠棲の地」に

 

到着しました。

 

 

 

 

そこは、

 

おそらく九間

(約16メートル)四方ほどの平地。

 

 

こんな狭いところに

 

 

戦国一の美女が

幽閉されていたのか・・・・

 

 

ここが

 

 

細川ガラシャ幽閉の地

 

 

「味土野」。

 

 

 

 

実は、

 

 

この時

 

鳥肌が立ち、

 

寒いぐらいの感覚でした。

 

いや、今でも

この場所を思い出すと

鳥肌が立ちます。

 

 

小説やドラマで思っていた

「味土野」とは違う

 

言葉や文字では

とても表現できません。

 

 

肥後古流「白水会」のみなさまも

感動されていたと思います。

 

私も

 

肥後金工を研究するために

日本全国の

細川忠興公に関係する場所を

見てきましたが

 

 

さすがに

 

この「味土野」は

衝撃を受けました。

 

ご覧ください

 

この「女城跡」から

四方を見ますと深い

山に囲まれているのがわかります。

 

 

 

この景色を見ながら、

ガラシャさんは生活をしていた。

 

幽閉と言いますが、

 

「逃げよう」なんて

とても考えないでしょうね。

 

それぐらい深い山。

 

そう考えていると

曇っていた天気が

少し晴れ、

美しい山が見えてきました。

 

 

 

この景色を

見ていたのか・・・

 

たしかに

「幽閉」という言葉だけを聞くと

悲しかったと思いますが、

 

もしかしたら

「ガラシャ」さんが

戦国という激しい時代の中で

 

一番

静かに生活できた場所が

ここだったのではないか?

 

とも思えてきました。

 

 

また、

 

ここに

忠興公が訪ねています。

 

ここまで自分を心配して

訪ねてきてくれたという

情熱を感じて

 

ガラシャさんも嬉しかった

のではないでしょうか?

 

 

 

味土野。

 

ついに

 

この場所を訪れることができました。

 

長い時間をかけて

この場所を見て

本当に良かったと思います。

 

 

この場所に来れたのも何かの

ご縁があったからなのでしょう。

 

最期に

 

女城跡に観音像が

祀ってありましたので

感謝の気持ちを込めて

手を合わせました。

 

ふと

 

その顔を見ると

ガラシャさんが笑っているようにも

見えました。

 

 

今回、はじめて

この場所に来て、

さらに

細川家の歴史を

知ることになりました。

 

つねに天下の動向と密接に関係し、

危機や変転きわまりない情勢の中で

 

適切な判断で時代を切り抜けた

忠興公や幽斎公は

 

多くの人に知られるべき

名将だと思います。

 

また肥後・熊本では

ガラシャさんは大変有名ですが、

実際、熊本には住んでいませんので

 

 

今回、彼女が生活した

歴史遺産に感動し、

 

あらためて全国の皆様に

この美しく神秘的な「味土野」のことを

知ってもらいたいと思いました。

 

 

長い時間が過ぎても

武士が大切にしていた美学を

「味土野」で教えてもらったような

気がしました。

 

 

関係者の方に

心より感謝申し上げます。

 

 

※味土野で検索されて

こちらを知った皆様へ

味土野(細川ガラシャ幽閉の地)前編はこちら

 

長いブログを読んでいただき

ありがとうございます。

 

「司馬遼太郎」の

「故郷忘じがたく候」・短編

「胡桃に酒」という小説に

この「水土野」が描かれています。

これを読むとさらに

細川忠興・ガラシャの世界に

引き込まれます。興味のある方はぜひ!

↓ ↓ ↓

資料:細川幽斎・忠興のすべて

新人往来社 米原正義編

細川忠興:PHP文庫:浜野卓也

細川三代 幽斎・三斎・忠利:

藤原書店:春名徹

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2 Comments »

 
  • 安藤道子 より:

     細川ガラシャ幽閉の地、歴史を交え詳しく教えて下さりありがとうがざいました。
    実は10月8日、9日と一泊でその地へ参ります。
    途中タクシーを使用とだけ説明があり、どのようなところかとネットをみましたら、「このような山道を夫人も辿ったのであろう。また忠興もここを訪ね、妻を大切に思う夫の慈愛」と受け取れ、私も心してこの地へ足を運ぼうと思っております。「一番静かに暮らせた場所」のコメントには感じ入りました。
    山伏、刀鍛冶等の貴重な解説もいただき、多方面に渡って五感を働かせ、勉強してこようと思います。
    また新米の季節「天の恵み ガラシャ」も外せません。貴重な解説ありがとうがざいました。

    • ohta より:

      安藤様

      ありがとうございます。
      武士道美術館 太田と申します。

      このメールをいただき、

      私が味土野に行ったのが
      ちょうど1年前の今頃だったのだなと
      懐かしく思い出しました。

      実は、この後、
      茶道「肥後古流」の皆様と
      ガラシャ様の終焉の地に行きました。

      忠興公が、
      ガラシャ様が亡くなった時、
      人目をはばからず
      号泣したという話も聞いて

      本当に愛していたのだなと
      思いました。

      そして、ガラシャ様にとっては
      味土野こそが
      「一番静かに暮らせた場所」だった
      と実感しました。

      散りぬべき
      時知りてこそ
      世の中の
      花も花なれ
      人も人なれ

      この辞世の句を詠むたびに

      美しいガラシャ様の精神が
      今でも輝いているように思います。

      太田光柾

 

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