英彦山と修験者を訪ねて(前編)

 

 

急速に進化し続ける「現代社会」の中で

 

忘れてはならない日本固有である

「武士の文化」にスポットを当て、

 

私達が今、本当に必要なものは何か?を

探し続けている「武士道美術館」。

 

今のように

インターネット、スマートフォンなど

機械文明が極度に発達してきますと、

 

やはり

人々の心の中には自然や、歴史に対する

憧れが強くなります。

 

私が「居合道を志す理由」も

そんな憧れと無縁ではないと思います。

 

「武士」という かつて日本に実在した

「独自の世界感」を持つ人達が残した

文化遺産を探り、ロマンを求めることは

 

便利な時代だからこそ必要だと

私は考えています。

 

 

さて、

 

今回は、そんな便利な時代とは逆の世界。

「修験者の山」を旅します。

 

かつて修験者が命をかけて修行し、

日本刀を制作した場所。

 

北九州・最高峰(1,200m)の山

「英彦山」。

 

英彦山と書いて「ひこさん」と読むこの山は、

 

古来より出羽の羽黒山、熊野の大峰山と共に、

「日本三大修験」の霊山として、あまねく信仰を

集めてきました。

 

私が、この山に興味を抱いたのは

以前、刀鍛冶「金剛兵衛盛高」が住んだ

宝満山を訪ねたからです。

 

 

福岡にある2つの山

 

「宝満山」と「英彦山」は、古来より修験者の聖地。

 

 

真言密教「大日如来」の

「知恵」の面を「金剛界」

 

そして

「理性」の面を「胎蔵界」と言う。

 

 

 

宝満山の「金剛界」に対して

英彦山は「胎蔵界」とされ

 

この両方ともに「刀鍛冶」が存在しました。

 

今回は、その「英彦山」を旅します。

 

 

 

ここは

福岡県の田川郡にあります

田川後藤寺(たがわごとうじ)駅。

 

 

日本らしい風景がたくさん残る場所。

この駅から車にて英彦山にむかいました。

 

 

英彦山は、

古来「天照大神(あまてらすおおみかみ)」

日神の御子

「天忍穂耳尊(あめのおしほのみこと)」が

君臨する山として、「日子山」と称され、

 

平安時代に嵯峨天皇の詔により「彦山」が

用いられるようになったと伝えられています。

 

さらに江戸時代の享保14(1729)年に

霊元法皇の院宣があってより、現在の

「英彦山」が用いられるようになりました。

 

 

英彦山の開山は、継体天皇の25(531)年、

中国北魏の僧善正が英彦山に入山し、

 

時を同じくして、日田藤山村の恒雄が

猟の途中で英彦山の霊験に会って、

 

この善正に帰依して、

忍辱(にんにく)上人となり、

 

彦山霊仙寺(現、英彦山神宮)の

基礎となる草庵を築いたと伝えています。

 

最近の研究では、この恒雄を

朝鮮開国の祖壇君の父神恒雄ではないか

とする韓国での研究があり、

 

宮司さんのお話によると

毎年、多数の登山者が韓国から

遊びに来ているとのことでした。

 

考えて見れば、九州地区は早くから

中国・朝鮮を経て銅剣・銅鉾が輸入されて

きたと言われています。

 

倭鍛冶と韓鍛冶の接点である九州の地で、

両者各種の特徴をとらえ融和して

世に冠たる「日本刀」が

誕生したと考えられます。

 

とくに英彦山から宇佐八幡宮、

そして大分の国東半島には

日本を代表する刀鍛冶が存在し、

 

中でも

日本で最も古い刀鍛冶と言われる

「神息」は

九州の製鉄の歴史が

かなり古くからあることを

物語っています。

 

 

 

そして

 

いよいよ

英彦山の麓に到着。

 

今までに経験したことのないような

独特の存在感の山です。

 

修験者の山という

「先入観」があるからでしょうか?

 

いやいや

想像していた鎌倉や戦国時代より

もっともっと古い時代から存在する

原始信仰の空気が漂う

「神聖な場所」と思いました。

 

マイナスイオン溢れると言いますか、

 

使いたくない言葉ですが

一般的に「パワースポット」と言われる場所。

 

 

また

豊前の古老の口からは

「うさ、らか、ひこ、くぼ」という言葉が出ます。

 

これは

「宇佐、羅漢寺、英彦、求菩提」のこと。

 

極楽浄土に行くために

この英彦山から大分に広がる

「宇佐八幡宮、羅漢寺、求菩提」

そして

 

この「英彦山」に参詣をちゃんと済ませたか?

と「閻魔大王」が尋問するという言い伝えから

 

そう言われ、

 

豊前、豊後の4つの代表寺社に

参っていないような亡者は

 

「地獄行き」であると言われていた・・・

なんて恐ろしい話ですが

 

英彦山は、それだけ

神聖で、ありがたい場所だと考えられ、

その人気が現在でも受け継がれているのです。

 

その人気は

六世紀に仏教が伝来し、

民間仏教と固有信仰が結合しながら、

 

英彦山のような

山岳信仰のルートへのったと考えられ、

 

その象徴として「役の行者」

「役小角(えんのおづぬ)」が登場します。

 

「役の行者」は大和にいた呪術者で、

その妖言をとがめられ伊豆に流され、

 

のちに「英彦山」に来たと言われています。

 

この「役の行者」が「修験者」の祖であり、

密教と山岳信仰とともに

「日本刀」の技術も発達したと言われています。

 

 

この場所は、現在も地元の祭で愛される屋敷。

かつて

ここには修験者が住んでいました。

 

宝満山の「金剛兵衛盛高」と同じように

山伏でありながら、刀鍛冶というような

修験者がいたのかもしれません。

 

実際に、この地方には

先祖が刀鍛冶だったという方が

多数いらっしゃるとのことでした。

 

なぜ?彼らは

こんな険しい山の中で生活したのか?

 

全ての生命体は

人間からバクテリアまで

 

「快楽」か「苦痛からの解放」の

2つしか行動しないと言われる中で

 

あえて「苦しい」という修行に挑み

行動していったのは何故か?

神聖な「日本刀」を作ったのは何故か?

 

この英彦山を

この目で見て謎を

探りたいと思います。

 

それでは

天狗が住むという「修験者の山」に

あなたも 行ってみましょう。

 

後編へ続きます。

英彦山と修験者を訪ねて(後編)はコチラ

 

英彦山の文化を未来につなげる

英彦山百科事典はコチラ

 

 

 

資料:英彦山 修験道館パンフレット

天狗の末裔たち 毎日新聞社

図説 豊後刀 山田正任著

 

 

 

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4 Comments »

 
  • 安部 仁章 より:

    実家が田川にある私にとって、香春岳と英彦山は思い入れがあります。
    後編も楽しみにしています。

    • ohta より:

      安部様

      ありがとうございます。

      私も田川には思い入れがあります。
      とても好きなところです。

      武士道美術館のプログラムを担当している
      川畑氏が田川に住んでおり、私は定期的に通っております。

      英彦山は昔から歴史のロマンを感じておりましたので
      今回は感動いたしました。

      どうぞ今後も宜しくお願いいたします。

  • again118 より:

    「うさ らか ひこ 求菩提」について興味があり9月5日に求菩提山と資料館を訪れました。館長様にお話しをお聞きしましたが要領を得ず。ここに辿り着いた次第です。
    結論を見まして「ほっ!」としております。記事につきましても楽しく拝見させて頂きました。
    「後編」楽しみにしております。

    • ohta より:

      ありがとうございます。
      「うさ らか ひこ くぼ」のことは

      毎日新聞社様が昭和44年に発行された
      「天狗の末裔たち」という本に書いてあり、
      私も初めて知りました。

      私は偶然に古本屋さんにて
      その本を手に入れまして
      驚いたわけであります。

      お役に立てて嬉しいです。
      後編も頑張ります。

 

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