風立ちぬ

 

 

私は

 

この 「私の家族」 のことを

ほとんど知らない。

 

 

なぜなら戦争で

この人達を

失ってしまったからだ。

 

 

 

 

彼らが

 

 

どんな声だったのか

どんな笑顔で笑ったのか

どんな趣味を持っていたのか

 

まったくわからない。

 

ただ一枚の写真があるだけ。

 

 

この写真は、

戦争がはじまる前の

 

祖父の家族写真。

 

ちなみに祖父は、この時、海外にいて

写っていない。

 

 

 

先日、

 

「風立ちぬ」という映画を見た。

 

まさに、

ここに写っている人達が

生きた時代だった。

 

祖父は「大正3年生まれ」なので

堀越二郎より11歳若い。

 

 

堀越の設計した飛行機に乗っていた

大久保先生が

今も

お元気でいらっしゃることを考えると

 

もしかしたら、この写真の人達は

私達と

今を生きていたかもしれない。

 

でも

 

戦争によって亡くなってしまった。

 

 

おばあさんを

 

空襲の時に助けようとして

亡くなった祖父の弟。

 

たくさんの夢と希望を持って

生きていたと思う。

 

なぜ?こんな優しい子供が

爆弾をうけて

死ななければならなかったのか?

 

 

 

東京大学を卒業し

戦死した祖父の弟

 

 

優秀な頭脳は

自分の夢にも使いたかっただろう。

 

そして

この、おじさんにも

好きな人がいたかもしれない。

 

 

なのに

戦争は、遺骨すら

家族のもとに返してくれなかった。

 

 

 

獣医の学校に行った

おじさん。

どのように亡くなったかも

わからないし、

 

写真もほとんど残っていない。

 

この写真も祖父のアルバムから

最近、発見したので

私の親戚も

これを見たことない人がいる。

 

それぐらい何も残っていない。

 

 

ただ、わかっているのは

彼らのような

罪もない人達が犠牲になったこと。

 

そして

その犠牲の後に

私達の平和があること。

 

 

私は、この人達の墓参りを

毎年、欠かしたことはないが、

あらためて

この夏、

平和の大切さを感じる。

 

 

そして

 

「風立ちぬ、いざ生きめやも」

 

写真の中から

みんなが

 

今を生きる

私達に叫んでいるように聞こえた。

 

 

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1 Comment »

 
  • 平四郎吉政 より:

    先の大戦では数多くの国民が数多くの未来とともに葬り去られてしまいました。

    私も父に聞いた事があります。戦時中に右翼バリバリで愛国を叫び、イケイケドンドンと
    太鼓を叩いていた大学生ほど出征時はジタバタと見苦しく、普段カフェでコーヒーでも
    飲んで軟弱と見られていたごく普通の一般学生の方が、静かに征ったとの事です。

    毎年八月十五日が近づくと私が深く思うのは、戦没者を十把ひとからげにしてはいけないと
    言うことです。戦没者に対しての国の責任がまったく違います。

    職業軍人の将校と召集兵の二等兵、無差別爆撃での一般市民。命の重さは変わりが有りませんがどうでしょう? 硫黄島司令官の牛島中将と三十過ぎの補充兵として二等兵で身重の妻を残し硫黄島に出征戦死した私の叔父。どちらが納得して死んでいったでしょうか?

    高級将校の戦後の人生も感慨ふかいものです。源田実の戦後の経歴、淵田美津夫の戦後の経歴
    カーチスルメイの日本国天皇からの叙勲、それを推薦した人々、それを興味も無くただ横目で
    眺めるだけの人々。 

 

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