金剛兵衛・源盛高を訪ねて(その1)

 

 

卒塔婆(そとうば)。

 

サンスクリット語で「stûpa ストゥーパ」とは、

釈迦が荼毘に付された際、仏舎利を治めた「塚」のこと。

 

 

 

中心(なかご)の形を

この「卒塔婆」にする一派。

 

 

それが

金剛兵衛源盛高(こんごうひょうえみなもともりたか)。

 

 

金剛兵衛

その名前を初めて知ったのは

お世話になった「全日本居合道連盟 範士十段」

岡嶋武次郎先生(故)が中心となって企画された

展覧会でした。

 

 

 

 

平成十八年

「熊本県伝統工芸館」で開催された

「盛高靖博(もりたかやすひろ)の世界と肥後透鐔展」。

 

この展覧会では、昭和57年に亡くなった

盛高靖博氏が鍛えた刀・短刀20振とともに、

ご子息の盛高琢象氏が制作した

肥後透鐔40枚を揃えた展覧会で

 

 

盛高会の代表世話人をつとめられた

岡嶋武次郎先生の愛刀をはじめ、

父の「倭吹 丸鍛」短刀も展示したので

よく覚えています。

 

 

金剛兵衛盛高は、筑後国(筑前)御笠郡宝満山麓の

博多・太宰府付近に住した刀匠で、

博多出身とも

太宰府の竃門神社(かまどじんじゃ)の山伏とも

伝えられています。

 

左文字(さもんじ)一派とほぼ時代が前後しており、

初代盛高は盛国の子で、のちに左文字の祖となった

良西の聟となった刀匠なので

西蓮とは義兄弟とも言われています。

 

 

江戸時代中期に

 

「貝原益軒(かいばらえっけん)」が

著した「筑前続風土記」によると、

初代盛国は博多に居住し

元は山伏で母は末の左文字の娘である、

あるいは、金剛兵衛は太宰府有智山(うちやま)の

正応(しょうおう)の子孫であるという

二つの説を紹介してあります。

 

しかしながら、本当のところは解りません。

 

 

 

 

当時は、僧坊四百を数え、

 

その隆盛を極めていた宝満山の

天台宗系山伏派の僧門鍛冶となり、

 

さらに

 

太宰府内の有智山城主 太宰少弐氏の庇護を受け、

 

弘安の蒙古襲来の時には、少弐氏に仕えて鍛刀し、

以来永く繁栄を続けた一派と言われる金剛兵衛。

 

 

 

のちに

細川忠興公と出会い、

 

この一派は細川家とともに肥後金工の聖地

熊本・八代へ移り、八代妙見宮の御用鍛冶となります。

 

 

 

 

今回は、筑前の刀工であり、

 

肥後金工とも大きく縁のある

金剛兵衛盛高を訪ねてみたいと思います。

 

武士道の魂が宿る金剛兵衛の「日本刀」。

 

その奥深き世界に触れ、

歴史のロマンを一緒に旅してみませんか?

 

金剛兵衛・源盛高を訪ねて(その2)はコチラ

 

資料:文化遺産オンライン 左文字短刀

蒙古襲来図

福岡市美術館:筑前の刀工 金剛兵衛 常設展示室(部門別)解説

堀本一繁著 脇差し:写真 福岡市美術館蔵 延徳4年

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