素晴らしき肥後の伝統工芸(その2)

 

川尻刃物(かわしりはもの)。

 

室町時代の応永年間(1467年〜69年)に

薩摩の刀工「波平行安(なみのひらゆきやす)」の

流れをくむ刀鍛冶が川尻に住みついたのが

始まりと言われています。

 

江戸時代には肥後藩の造船所が設けられて、

鍛冶が盛んになり、藩から特別な保護を受けて

発展しました。

 

 

極軟鋼(ごくなんこう)に鋼(はがね)をはさみ、

手打ちで鍛え上げる「割込鍛造」や

「片刃付鍛造」という製法で作られ、鋼があるうちは

何度も研ぐことができ、切れ味を保つことが出来ます。

 

現在は熊本市川尻の川尻刃物とその流れをくむ

手打刃物が宇土にあります。

 

 

人吉・球磨刃物。

 

鎌倉幕府の地頭として遠州(えんしゅう)静岡県より

赴任してきた相良氏(さがらし)が、

遠州と当地の技法をあわせ独自の鍛冶技術を

編み出したのが始まりともいわれています。

 

相良藩時代には、60軒程あった鍛冶屋を集めて

鍛冶屋をつくり、平時は農作業の刃物を作らせ、

戦いが始まると武具を作らせていました。

 

この地方では山林業が盛んであったため、

包丁はもちろんのこと、斧、鉈(なた)、

造林鎌(ぞうりんがま)、鋸(のこぎり)などが

生産されています。

 

 

山鹿燈籠(やまがどうろう)。

 

第12代景行天皇の筑紫路(福岡)巡幸の時、

熊本県の山鹿市付近で一面の霧が進路をはばんだので、

里人はたいまつをかかげて一行を迎えました。

 

その後、これを記念して、たいまつを行在所跡

(現在の大宮神社)に献ずる火まつりが

行われるようになりました。

 

 

応永年間(1394~1428)に紙細工で金燈籠を

模したものが作られ、大宮神社に奉納される

習わしとなりました。これが、現在の山鹿燈籠であると

伝えられています。

 

ポスターは以前、山鹿市で撮影させていただいた

坂東玉三郎さんの特別舞踏公演ポスター。

 

 

山鹿燈籠は、和紙と糊だけで作られる

立体的構造を持つ工芸品で、金燈籠の他に寝殿造り、

城造りなどがあり、有名な建物を模した精巧な作品も造られます。

 

細かい部分に至るまで全て中は空洞になっていることと、

実在感を出すために独自のスケールで

縮小していることが特徴です。

 

 

山鹿燈籠と同じく山鹿で有名な「来民(くたみ)うちわ」。

 

現在の山鹿市鹿本町来民は、

京都や丸亀と共にうちわの三大産地でした。

 

この地域は、和紙と竹の材料に恵まれていたため、

うちわの生産が盛んになり、昭和初期には

年間600万本のうちわを生産したと言われています。

現在は一軒だけで作られています。

 

熊本県伝統工芸館「巡回展」の詳しいスケジュールはコチラ

 

資料:熊本県伝統的工芸品パンフレット、巡回展展示より

 

 

 

 

 

 

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