田辺城と古今伝授(その3)

 

 

消えわびぬ

うつろふ人の秋の色に

身をこがらしの

森の下露

 

藤原定家

 

 

これは今から約770年前に

「藤原定家」が詠んだ和歌。

 

意味は、

 

心変わりして

私(女性)に飽きてしまった

その人(男性)の様子に

 

死にたくなるほど寂しく

木枯の森におりる露のように

消えてしまいそうに

 

身を焦がすように思い嘆いている・・・

という内容。

 

 

単純な歌・・・と思わずに

もう一度

詠んでみてください。

 

消えわびぬ

うつろふ人の秋の色に

身をこがらしの

森の下露

 

このシンプルな文章の中に

 

「秋」が、秋、と、飽き、

「こがらし」が、

木枯し、と、焦がす、

 

「森」が、森、と、漏り、

という二重構造が隠され、

 

また、人の心が変ることと

木の葉が緑から紅葉に「うつろふ」

移り変わること

 

「露」は、露と涙の意味があり

 

単に女の状態を語るのに

比喩的に用いられているのではなく、

自然現象としての露でもあり、

 

定家は歌の中に

両方の表現を与え、

一つの作品として完成させています。

 

 

これが武士の愛した「和歌の世界」。

 

どうして・・・

あんな殺戮の日々で

武士はこのような繊細な和歌を

愛したのでしょうか?

 

激しく戦う「武の世界」とは真逆の

静寂な世界を求めたのでしょうか?

 

 

戦乱が続いた中世から、

武家は熱心に和歌を詠み続けました。

 

宮廷文化への憧憬だけではない、

 

時には、

一門や家臣との結束をはかり、

 

また合戦を前に神仏と交流し、

武力だけでなく、

この「和歌」などの

「文化力」も磨かなければ

 

武士は支配を確かなものには

できなかったのです。

 

そんな数ある和歌の中で

代表的な「藤原定家の歌」を紹介しました。

 

そして彼の

生まれ変わりと言われた武将が

戦国時代に現れます。

 

それが

 

細川幽斎。

 

不思議な巡り合わせか

定家を愛した幽斎公の命日は

藤原定家と同じ8月20日でした。

 

 

その「細川幽斎公」が籠城し、

天皇から勅命が下ったと言われる

伝説の田辺城に来ております。

 

もはや、

「和歌の聖地」とも言える場所。

 

だんだんと夕方になり

暗くなってきましたね。

 

歩いておりますと

田辺城公園の敷地内に

天守台跡を発見。

 

 

東西に21メートル、

南北に約31メートル、

基底部からの遺存高4.5メートル。

 

石垣は、自然石や荒割石を用い、

その隙間に小石を詰めた、

古式穴太積み技法によって

積まれています。

 

この技法は織田信長の安土城や

豊臣秀吉の大阪城の石垣にも

見られることから、

 

幽斎公と忠興公が

天正年間(1573〜1592)後半期に

築城した当時の遺構であることが判明。

 

この石垣を見れて幸せでした。

 

 

前回からご紹介していますように

関ヶ原の時代に

 

石田三成の西軍1万5000の大軍に対し、

わずか500で籠城した幽斎公。

 

ここが舞台です。

 

当時、朝廷や公家達は

政治の表舞台に出ることは少なく、

実権も失っていました。

 

しかし、

古今伝授を守るために

朝廷は行動を開始します。

 

八条宮智仁親王は、

城内に使者を送って和睦を勧めますが、

幽斎公は、これを固辞。

 

その時、

和歌一首を添えて、

 

古今伝授の証明状と

「源氏抄」を智仁親王に

 

また、後陽成天皇に

「二十一代和歌集」を

 

烏丸光広と前田玄以には

「草子十二帖」と

「六家集十八帖」を贈り、

死を覚悟します。

 

 

幽斎公の決意を知り、

心を深くうたれた智仁親王の兄

後陽成天皇も動きます。

 

古来より伝承されてきた

和歌の美学が廃れてしまう!

なんとしても助けなければ・・・

 

という願いから、

幽斎公の同母弟である大徳寺の

玉甫(ぎょくほ)に使者を出します。

 

しかし、幽斎公の決意は固く、

説得は困難であることから

これを断り、前田玄以を介して

和睦工作を進め、勅使として

烏丸光広らを

この田辺城に送りました。

 

 

その舞台がここ。

 

肥後古流・白水会の皆様も

感動されていました。

 

なんと言っても

天皇が積極的に動かれたことで

「戦争を止める」という

 

世界にも例のない奇跡の出来事が

実現したのが この場所なのです。

 

 

 

室町幕臣の次男として生まれ、

 

管領「細川家」の傍流を継いで

足利将軍家のために費やした

若かりし日々、

 

その後、信長、秀吉、家康

という3人の天下人から

信任を受けた背景には、

 

このような天皇でさえも

生命を守ろうとした文化的な才能

がありました。

 

文と武で乱世を生きた

細川幽斎公ゆかりの田辺城に来て、

武士が芸術を愛した理由が

少しだけ解ったような気がしました。

 

400年以上も前の出来事に

あらためて感動する一日になりました。

 

本日の最期は

その籠城戦の時に

幽斎公が詠んだ歌をご紹介します。

 

 

「いにしえも

今も変わらぬ世の中に

心のたねを残す言の葉」

 

細川幽斎

 

 

熱心に解説していただいた

地元ガイドの皆様と

肥後古流・白水会の皆様に

心より感謝いたします。

 

田辺城と古今伝授(その1)はコチラ

 

 

 

資料:日本の文学 ドナルド・キーン 新潮社

武士はなぜ歌を詠むか 小川剛生 角川学芸出版

週刊日本の100人 細川幽斎 デアゴスティーニジャパン

伝藤原信実筆 鎌倉時代 藤原定家肖像画

 

 

 

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