田辺城と古今伝授(その1)

 

ここに一振りの刀がある。

 

その名は「古今伝授行平」

(こきんでんじゅゆきひら)。

 

平安時代末期から

鎌倉時代初期に活躍した

豊後国(大分県)の名工・行平

別名「紀新太夫行平」の作。

 

後鳥羽上皇の御番鍛冶

二十四人中・四番鍛冶として

その名が高い。

 

そして、その持ち主は

 

 

天皇が助けたかった“才能”を持つ男。

細川幽斎

 

 

行平の太刀は、細身で腰反りが高く

優雅な作風で、刃文は直刃(すぐは)

また小乱れ(こみだれ)。

 

行平は山城伝で

伝説では刀工であるとも

修験者の山法師とも言われ、

 

この時代には珍しい彫刻の名手であり、

日本を代表する刀鍛冶の一人。

 

そして

この刀はのちに国宝となった。

 

まさに細川幽斎の刀にふさわしい。

 

 

時は戦国。

天下分け目の関ヶ原。

 

慶長5年(1600年)7月、

丹後田辺城に籠る幽斎は、

関ヶ原合戦の前哨戦として

 

石田三成の西軍

1万5千の軍勢に包囲された。

 

「古今伝授」の相伝者である幽斎を

救うため、八条宮智仁親王らは

後陽成天皇にすがって

 

烏丸光広(からすまみつひろ)らを

勅使として使わし、勅命による講和を行う。

 

幽斎は最初、死を覚悟していたために

拒否するが

 

 

「もし幽斎が

討死するようなことがあれば、

日本の和歌が廃れてしまう・・・

開城するように説得してほしい」

 

という天皇からの勅命が下り、

幽斎は恐縮し開城することを

承知した。

 

「武力」ではなく、

「芸術の力」で戦いに勝った

世界にも稀な田辺城のエピソード。

 

この刀は、その時、記念として

幽斎から烏丸光広に

贈られたものであり、のちに

「古今伝授行平」と

呼ばれるようになった・・・

 

 

 

 

と言うわけで

その「古今伝授」の舞台

 

 

京都・舞鶴市の

 

田辺にやってまいりました。

 

 

こちらは「舞鶴グランドホテル」。

 

引き続き、肥後古流・白水会の皆様と

細川家の文化を学ぶ旅に来ております。

 

肥後古流 白水会様の公式サイトはコチラ

 

 

ホテルに無事に到着。

 

この舞鶴グランドホテル、

田辺城では

すでに舞鶴市

文化振興課の皆様、そして

ボランティアの皆様が

案内のため待機していただいており、

本当に有難いですね。

 

 

夕方になってきましたので

私たちは、

さっそく田辺城にむかいます。

 

現在では

ビルが建ち並んでいますが

昔は広範囲に城があったとのこと。

 

今から行きます

田辺城は天正8年(1580年)8月に

織田信長より丹後の国をあてがわれた

細川幽斎公と細川忠興公が

 

ともに縄張りしたことに始まり、

天正10年代に完成したと言われています。

 

こちらが当時の田辺城跡

城郭復元図です。文化振興課の皆様に

いただきました。

 

 

これを見ますと

かなり大きかったのですね。

 

歩きながら、町に残された

当時の歴史跡を見ることができます。

 

 

堀の跡でしょうか。

この場所で籠城戦があった・・・

そんな想像をしながら歩きます。

 

細川家は関ヶ原の功により

豊前中津に加封され、代って

この田辺城には

 

京極高知(きょうごくたかとも)が入国。

その後は寛文8年(1668年)に

京極氏が但馬豊岡に移封になり、

 

牧野親成(まきのちかしげ)が

これに代って治め、以後

牧野氏が明治2年(1869年)の

版籍奉還まで代々田辺藩主として

この田辺に在城されました。

 

 

道路標識が「二の丸」。

 

これを見ると

大きな範囲にお城があったようですね。

 

ちなみに城は細川氏の築城後に

京極氏、牧野氏が拡張・改修を行い

ほぼ現在の舞鶴公園地にあたる本丸を、

 

二の丸・三の丸・外曲輪とそれぞれの

堀が囲む輪郭形式の平城として整備され、

 

さらに東の伊佐津川、

西の高野川、南の低湿田、北の湾海は

総濠としての役割をはたしました。

 

 

また、「舞鶴」という地名は

明治2年に藩名が城号をとって

「舞鶴藩」と改称されたことに

由来しているとのこと。

 

勉強になりますね。

 

 

この日は、朝から

熊本空港から

飛行機で伊丹空港→

天橋立→味土野という流れで

 

この「田辺城」に来ていますので

皆様、少し

お疲れだったでしょうね(笑)

 

でも、

幽斎公ゆかりの場所に

わくわくする気持ちが

勝っていたと思います。

 

そして

いよいよ!見えてきました。

 

 

これが

あの「田辺城」があった舞鶴公園。

 

現在では市民の憩いの場となっており、

中には資料館もあります。

 

みなさん感動していらっしゃる様子。

 

 

 

関ヶ原の時、

 

この田辺城には

幽斎公とその三男「幸隆」がわずかな

士卒を従えていただけで、

 

忠興公の弟「興元」・「孝之」や、

息子である「忠隆」・「興秋」をはじめ、

家臣団の主力は

みんな会津征伐に出国。

 

しかも、松井康之・有吉立行らの

細川最強軍団は豊後杵築に派遣されていました。

 

 

だからこそ

石田三成は狙います。

 

彼は、家康の会津遠征に従った

武将たちの妻子を大阪城内に入れ、

これを人質として諸将の行動を

牽制しようと考えました。

 

 

この時、三成は細川屋敷を包囲し、

忠興公の妻ガラシャの身柄を

確保しようと考えたのですが、

 

ガラシャはこれを拒否。

 

死を選びます・・・

 

 

幽斎公もガラシャの死を聞き、

大いに悲しんだと言われていますが、

 

三成の大軍1万5千が

田辺にむかって来ており、

 

幽斎公も余裕はなく、

わずかな兵で戦う決意をします。

 

幽斎公は

宮津・久美・嶺山・中山・

河守城を焼き払い、

各城守備の士卒を残らず田辺へ集め、

 

この田辺一城に立て籠って

三成を迎え撃つこととしました。

 

それが

この場所。

 

 

現在は公園として

新しく復元されているのですが

この場所で関ヶ原のエピソードがあった

と考えると歴史のロマンを感じますね。

 

そして

 

 

私たちは舞鶴公園の入り口で

 

イメージキャラクターの

「ゆうさいくん」を発見。

 

かわいいですね。

幽斎公が今でも地元の人達に

愛されているかがわかります。

ゆうさいくん公式サイトはこちら

 

 

さっそく中に入ってみましょう。

 

中ではボランティアガイドの皆様が

待機していらっしゃるとのこと。

 

もう夕方になってきました。

急ぎましょう!

 

 

立派な資料館に

わくわくしています。

 

いったいどんな

武士の美術に出会えるのでしょうか?

 

 

 

それでは中に入ってみましょう!

田辺城と古今伝授は(その2 )に続きます!

 

 

資料:舞鶴市田辺城資料館パンフレット、舞鶴市資料

熊本県立美術館:細川幽斎展パンフレット、

図説・豊後刀 山田正任著 雄山閣

青永文庫:古今伝授行平 週刊日本の100人 細川幽斎

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