黒田官兵衛
黒田 官兵衛を200%楽しむ方法。
黒田の築城トリックのページでも紹介したように黒田官兵衛(如水)と長政親子は関ヶ原の後に福岡に入国し、最初は名島城に入るが手狭であること、また平地なので攻撃されやすいことから別の場所を探すことになった。次に住吉神社一帯を検討。しかし、昔は住吉神社の周辺は大湿地帯で、得に春吉は、春だけ野菜ができて、夏は水浸しになるということで
「春は良し」で「春吉」となった場所。今では工事のおかげで洪水はなくなり、お洒落なバーや居酒屋が並ぶ福岡の名所になっているが、それぐらい城の候補地としては難しい場所だった。現在では大都市が築かれている福岡だが、もともと黒田が来る前は「福岡城」の裏は海があり、黒田家がいなかったら現在の福岡市は存在しないのである。
さて、次に候補地にしようとした光雲(てるも)神社などの荒津山(西公園付近)も海に囲まれていたので、後ろが弱く、博多の町のほうから攻めてこられると、攻めおとされる懸念がある。それに水がないことで断念。それで現在の場所に築城された。当時、この福岡城がある場所には赤坂山や大休山という山があったのを、山ごと削って城を築いた。それで現在「赤坂」という地名だけが残っているという。
ほとんど城跡がない地味な福岡城。 福岡の観光名所としても太宰府な どと比べれば圧倒的に観光客が少ない。それには黒田官兵衛の戦略的な理由があった。 「目立てば負け」。本当の強さは裏に隠しておく、人に見せない。住んでいる人達にも意識させない。しかし実戦になったら恐ろしい戦国最強の城。それが官兵衛(如水)の城作りだった。
次に福岡城に行って驚くのは天守閣がなくても街全体がよく見えること。例えば、西の糸島から、次に金印が出たことで有名な東の「志賀島」、「立花山」まで良く見えることは凄い。実はあの当時、立派な天守閣や華麗な城を作った大名は、のちに徳川家から潰されている。素晴らしい熊本城を築城した「加藤清正」も二代の広忠のときに潰され、「福島正則」もあれだけ関ヶ原で働いているのに、豪雨で石垣が崩れたのを無断で修理したという理由だけで徳川家から因縁をつけられるようにして潰された・・・
黒田官兵衛(如水)は、立派な天守閣や華麗な城を作れば、徳川家に謀反をおこす、または先程のように危険と見られて潰されることを考え、先を読んで、あえて天守閣がなくても戦える場所に福岡城を築城したと考えられる。実際にあの築城の名手だった加藤清正が「自分の城は3日か4日で落ちるけれど、この福岡城は30日、40日は落ちない」と言って驚いたというエピソードが残っている。福岡城に天守閣があったか、なかったか大きな謎であるが黒田の城作りは先の先まで読んだ最強の城だったと言える。例えば、お堀は、もぐるに浅すぎる、立つにはやっかいで忍びようがない。忍者泣かせの堀。まわりの土手は登りにくく、堀をやっと越えても、城側の槍ぶすまで殺される。また、当時の橋は板をならべたような橋で、いつでも引き落とせる。東中島橋の手前、麹屋町から掛町、橋口をほぼ直角に曲げ、その曲がり角にすぐに出せる「隠し家」の塀のようなものを出すと道を塞ぐ、すると、町筋は那珂川と平行に海に向かい、走ってきた敵の兵は海に落ちるという仕掛け。お寺の数が日本で京都の次に多いのも戦争になったら、その場所の墓石を鉄砲の玉よけにするという狙いがあり、のちに萩がそれを真似たと言われるほど戦うための町作りになっていた。城跡しかなく、市民にもあまり意識されないほど目立たない福岡城だが、住んでいる人達が意識しないほど目立たない裏に恐ろしい仕掛けを作った黒田官兵衛(如水)のトリック跡が現在もはりめぐらされている。
武士道