豊臣秀吉
戦国武将を学ぶ
豊臣秀吉
Hideyoshi Toyotomi
百姓から天下人へと登りつめた「戦国一の出世頭」
豊臣秀吉とは

尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に百姓と伝えられる弥右衛門、なかの間の子として生まれた。
はじめは日吉丸といい,やがて木下藤吉郎と名のった。足軽として織田信長に仕え、才気と行動力で重用され、浅井氏の滅亡後はその旧領をあたえられて長浜城主となり、羽柴秀吉と改名。1582年、中国地方平定のさなかに信長の死本能寺の変の知らせを受けると、ただちに毛利氏と和睦して引き返し、明智光秀を山崎の戦いでたおし、翌年には柴田勝家を賤ヶ岳の戦いでやぶり、統一事業の後継者となった。
ついで四国・九州を平定し、1590年、小田原の北条氏をほろぼして天下を統一を果たした。

豊臣秀吉
豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵 重文)
豊臣秀吉・年表まとめ
天文 6年(1537年)   尾張(愛知郡中村)に生まれる。母はなか、父は百姓の木下弥右衛門と いわれているが定かではない
     
天文23年(1554年)   織田信長の草履取りとして仕える。
     
永禄 4年(1564年)   浅野又右衛門長勝養女(実父杉原定利)ねねと結婚する。
     
永禄 8年(1565年)   信長の朱印状の副状に、木下藤吉廊秀吉と署名した。
     
永禄 9年(1566年)   墨俣築城、斉藤竜興(たつおき)の兵を破る。
     
元亀元年(1570年)   信長、家康とともに浅井・朝倉を近江姉川に破り、横山城を守備。
     
天正10年(1582年)   本能寺の変。毛利氏と講和し高松城主清水宗治自刃させる。
山城山崎に明智光秀を破った。
織田家の宿老、尾張清洲城に集まり、信長の後継を三法師(信秀)と定め、後見につく。
     
天正12年(1584年)   小牧・長久手の戦い。徳川家康、織田信雄の連合軍と戦い破れる。
     
天正13年(1585年)   四国の長宗我部元親を降伏させて、四国を平定する。
従1位関白に叙任し姓を藤原と改め関白拝賀を行った。
     
天正15年(1587年)   兵2万6000を率いて、九州島津氏を征伐するため大坂を出陣。
     
天正17年(1589年)   側室淀殿が淀城にて鶴松を生み大坂城に移る。
     
天正18年(1590年)   小田原城に北条攻め。北条氏直、織田信雄の陣に投降。ついに北条氏が滅ぶ。
     
文禄元年(1589年)   諸大名に朝鮮出兵を命じる。
     
文禄 4年(1593年)   家康以下諸大名30名の連署血判をとり、捨丸に忠誠を誓わす。
     
慶長 3年(1598年)   病に伏し、跡継ぎの豊臣秀頼をくれぐれも頼むと家康や利家に言い残しながら、伏見城にて死没。
     
豊臣秀吉と文化遺産・歴史ガイド
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豊臣秀吉・youtube 動画一覧
豊臣秀吉・ヒューマンエピソード
信長の草履取り時代
秀吉がまだ木下藤吉郎という、信長の草履取りの時代のことであった。ある雪の夜、信長が女部屋からの帰りに下駄を履くと、温かくなっていた。「おまえは腰掛けていたな、不届者め」と怒って秀吉を杖で打ったが、秀吉は「腰掛けてはおりません」と言い張る。信長が「温かくなっていたのが何よりの証拠だ」と言うと、秀吉は「寒夜なので、御足が冷えていらっしゃるだろうと思い、背中に入れて温めておりました」と答えた。
「ではその証拠は何だ」と尋ねられると、秀吉は衣服を脱いだところ、背中に下駄の鼻緒の跡がついていたという。信長は感心し、すぐさま彼を草履取りの頭とした。


正義感の強い人間だった
濃の斎藤氏との戦で、秀吉があるとき宇留馬城主・大沢次郎左衛門を内応させ、信長の元に連れてきた。信長は「この大沢なる者は武勇に秀でた者であるが、心変わりしやすい者で味方として信じるのはどうか。今夜腹を切らせよ」と言った。秀吉は「降参してくる者に腹を切らせては、今後降参してくる者はいなくなります。ここは一つお許しになった方が…」と申し上げたが聞き入れられなかった。
さて、秀吉は大沢の前へ行き、「これこれの事情で何とも申し訳ないが、ここにいてはあなたの身に危険が起きます。どうか逃げて下さい。ご不審なら私を一緒に連れていって下さい」と刀や脇差しを投げ出して無腰になった上で語った。大沢は彼の誠意に打たれ、今までの礼を厚く述べ無事に脱出した。


信長を酷評していた
秀吉は信長の忠実な部下として知られているが、その彼が後に信長を評した面白い言葉がある。「信長公は勇将なり、良将にあらず。一度敵せる者は、その憤怒つひに解けずして、悉くその根を断ち、その葉を枯さんとせらる。故に降を誅し、服を戮せられ、寇讐絶することなし。これ量狭く器小なるが故なり。人のために憚らるれども、衆のために愛せられず」つまり、「信長公は勇将ではあるが、良将ではない。信長公に一度背いた者は、その者への怒りがいつまでも収まらず、その一族縁者はみな処刑しようとされた。だから降伏する者も殺し、敵討ちは絶えることがなかった。これは器量が狭く人間が小さいからである。人からは恐れられはしても、大衆から愛されはしない」ということである。


豊臣秀吉の家紋
豊臣秀吉の家紋
五七の桐(不詳)


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