加藤清正
戦国武将を学ぶ
加藤清正
Kiyomasa Katou
築城、土木治水の神様として今もなお、熊本市民に愛される加藤清正。
豊臣秀吉に生涯忠義を尽くし続けた武士道精神をもつ戦国武将。
加藤清正とは

九州・熊本の守り神として今もなお、市民に愛される加藤清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
賤ヶ岳七本槍の一人で武に優れ、日本三名城と言われる「熊本城」を築いた築城の名手。また、洪水で悩まされた熊本を土木・治水工事で水害から救ったことから、熊本の市民に今もなお愛されている。

豊臣秀吉の子飼いの家臣。各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。

加藤清正
資料:本妙寺所蔵品
加藤清正・年表まとめ
永禄5年(1562年)   尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に刀鍛冶の加藤清忠の子として生まれる。
     
天正元年(1573年)   豊臣秀吉に小姓として仕える。
     
天正10年(1582年)   本能寺の変が勃発。加藤清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加。
     
天正11年(1583年)   賤ヶ岳の戦いで敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられる。
     
天正14年(1586年)   秀吉の九州征伐に従い、肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とした。
     
天正17年(1589年)   小西行長領の天草で一揆が起こる。
行長の説得を無視して出兵を強行、瞬く間に鎮圧。
     
文禄元年(1592年)   文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した。
慶長3年(1598年)   豊臣秀吉が死去する
     
慶長4年(1599年)   前田利家が死去する
     
慶長5年(1600年)   関ヶ原の戦いでは九州に留まり、黒田如水とともに家康ら東軍に協力して小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半を与えられ52万石の大名となる。
     
慶長10年(1605年)   従五位上・侍従兼肥後守に叙任される。
     
慶長16年(1611年)   二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中の船内で発病し、熊本で死去。享年50(満49歳没)。
     
加藤清正と文化遺産・歴史ガイド
加藤清正wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/加藤清正

熊本城公式ホームページ
http://www.manyou-kumamoto.jp/castle/

熊本市観光情報ガイド
http://www.manyou-kumamoto.jp/

加藤神社
http://www.kato-jinja.or.jp/

名古屋市秀吉清正記念館
http://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/19-15-2-5-0-0-0-0-0-0.html

熊本城公式ホームページ
資料:本妙寺所蔵品
加藤清正・youtube 動画一覧
加藤清正・ヒューマンエピソード
土木・治水・築城の名手
熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城を行った築城の名手。

また飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。
その土木技術は非常に優れており400年後の現在も実用として使われている。


手が26cm?大男だった説
加藤清正は、かなりの大男だったようで手形が残っているが、相撲の力士よりも手が大きかったそうで、計ると26cmにもなった。


忠義の人。今も愛される人気の理由。
豊臣秀吉に忠義を尽くし、遺児・秀頼を終生守り通した武士道精神は現在でも多くの人々に愛される理由です。


細川家との融合
加藤清正が亡くなり、その後、熊本を納めることになった細川家は、土木治水や築城、農業などで貢献した加藤清正に対する地元の熊本の人々の気持ちを察知し、また尊敬の念を込めて加藤清正の位牌を先頭にして、肥後・熊本に入国したと言われている。

もともと熊本は薩摩や博多に囲まれ、敵に責められる油断を許せない土地。博多のように中国や韓国との交流が昔からあったわけでなく、よそ者を受け入れることが地理的に難しい場所でした。熊本の人達が「もっこす」と言われ、頑固な人が多いと言われるのも、地理的な環境もあった。

清正の前に、肥後を治めようとした佐々成政も、肥後国人一揆をおこされ、失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、切腹させられたこともあり、細川家も肥後を治めるために「加藤清正」を神格化し、そのお膝元で政治を行う必要があったとも言われている。熊本で清正が愛される理由は細川家との関係もあると考えられる。

加藤清正の家紋
加藤清正の家紋
蛇の目紋

加藤清正の家紋
桔梗紋

戦には「蛇の目」、
慶事には「桔梗」の紋を活用。
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