菊池一族と鎌倉幕府
モンゴル襲来によって
今までにない
戦闘方法を体験した菊池一族が
新しい日本刀を作るために
京都から名門「来一派」を
肥後に呼び寄せ、
その鍛冶集団が
「延寿」と名乗ったことを
ご紹介しました。
写真:熊本県指定
有形文化財 指定第一号(工芸)
特別重要刀剣 短刀 銘 国時(延寿)
(※2017年5月7日まで菊池夢美術館にて
展示しております。)
この時代、
京都から「延寿鍛冶」を呼び寄せるほど
菊池一族にとって
優れた日本刀が必要だったのです。
それだけ「元寇」は
重要な戦いでした。
実際に
この戦いで菊池一族も
多くの犠牲者を出しました。
また、全国の武士達も
モンゴルとの戦いで
大きな犠牲があったのです。
このように
2回の元寇を必死で戦った武士達は
当然のごとく
幕府からの恩賞を期待していました。
ところが・・・
幕府は武士が考えているような
恩賞を与えませんでした。
この頃から
社会が大きく変わっていきます。
その際の混乱ぶりを示しているのが
「悪党」と呼ばれる人達の登場です。
悪党というと
単純に「悪い人」のようなイメージですが
中世の「悪党」とは
荘園の領主とか鎌倉幕府に
武力で対抗した人達のことを言います。
支配者から見ると
悪党と呼ばれる人達ですが
当時の
「峯相記(みねあいき)」に
書かれた「悪党」の記録として
「浦々ノ海賊。寄取、強盗、山賊
カカル類い十人、二十人」
という集団で動いていたことが記され、
それから数十年後の
鎌倉幕府滅亡の時期には
50〜100人が馬に乗って
活動する武力集団に変化して、
それを国中の人々が
同意するようになったと
書かれています。
幕府に対しての不満が
頂点に達しようとしていました。
そこで鎌倉幕府は
「得宗の専制化」を行います。
得宗とは
鎌倉幕府の執権
北条氏嫡流の家督のこと・
初代・北条時政・以下九代の総称です。
中央(評定衆など)、
地方(守護)の要職を
北条一門が占め、
得宗領も拡大しておりました。
北条高時と北条氏の家臣が
幕府を独占で動かすようになっていき
北条氏の家臣の中の
TOPである内管領(長崎高資)と
(長崎円喜)が権勢をふるいます。
それに対して御家人の不満が
さらに高まり、
幕府が支持を失っていきます。
ちなみに余談ですが
1991年のNHK大河ドラマ「太平記」で
「長崎円喜」を
フランキー堺さんが演じていましたね。
ものすごい名演技で
憎ったらしい役を
見事に演じていらっしゃいました。
素晴らしい役者さんだなと思います。
資料:NHK大河ドラマ「太平記第5話」
この「太平記」
個人的にNHK大河ドラマの中でも
大好きな作品で
これを見ると
南北朝時代がよくわかります。
というか、
描くのに2〜3年はかかるものを
よく1年で纏めたな〜(笑)と思いますが
菊池一族は残念ながら
まったく出てきません。
多々良浜の戦いはどうした!
と言いたい菊池ファンの方も
多いとは思いますが
まあ、この番組は
尊氏公が主役ですので
仕方ありませんね・・・
さて、悪党に対して
政治を強化したつもりが
日本全国で多くの不満が溢れ
御家人で守られていた
鎌倉幕府が
中から崩壊していく時代になります。
そんな時に
後醍醐天皇が即位するのです。
資料:後醍醐天皇像(清浄光寺蔵)
後醍醐天皇は政治の実験を
幕府から取り戻し
天皇が政治を行うように考えます。
そして
鎌倉幕府を倒そうとする
計画を立てるのですが、
ここでは少し
後醍醐天皇についてご紹介します。
後醍醐天皇は
父・後宇多法皇に代わり
元享元年(1321年)から
新政を開始されました。
後宇多法皇は死の間際まで
皇太子の邦良親王を
大覚寺統の嫡流として、
後醍醐天皇にゆくゆくは
邦良親王への譲位を
行うように命じていましたが
元享4年に法皇が崩じると
後醍醐天皇は
邦良親王や持明院統、
幕府に対しても激しく反発しました。
これが南北朝時代の
原因となる部分ですが
それは、少し後の話しです。
ちなみに、
少しだけ南北朝時代を説明しますと
現在の奈良県(吉野地方)に「南朝」、
北の京都に「北朝」という
南北に分かれて
約60年間争った時代を
「南北朝時代」と言います。
さて、後醍醐天皇は
天皇自らの政治
「天皇親政」を行いました。
そして1324年
鎌倉幕府打倒を計ります。
これが「正中の変」(1324年)です。
高校の期末テスト以来、
この名前聞いた〜という人も
いらっしゃるかもしれませんが
大切な出来事です。
後醍醐天皇が
必死で行動したのですが
この計画は事前に
幕府に発覚し未遂に終わりました。
その後、1331年、
再び倒幕を考えた後醍醐天皇は、
さらに側近の密告で計画が漏れ、
幕府が御所に軍勢を送ると
後醍醐天皇は脱出し、
比叡山にむかうように
見せかけ笠置山で挙兵します。
しかし、倒幕は失敗し、
幕府に捕らえられた
後醍醐天皇は1332年、
島根県の隠岐に流されました。
その後、後醍醐の皇子
「護良親王」が
父の意志を継いで
奈良の吉野で挙兵しました。
資料:護良親王出陣図
また、楠木正成も挙兵し
悪党達・反幕府勢力を結集します。
正成は河内の山間にある
千早城に立て籠り、
幕府の大軍を悩ませます。
幕府が楠木正成の
千早城をおとせないことが
全国に知られると
幕府打倒の機運が高まりました。
一方、後醍醐天皇は
1333年に隠岐を脱出し
伯耆の国現在の鳥取県に上陸します。
そして船上山に立て籠り
この場所から倒幕を指揮します。
幕府の有力御家人であった
足利尊氏が
後醍醐天皇と戦うことを命じられ、
京都にむかいますが・・・
しかし、
尊氏が後醍醐天皇側に寝返り、
京都におかれた六波羅探題を
攻め落とします。
六波羅探題の北条仲時と
その一行400人は
東国に逃れようとしましたが
行く手を阻まれて自決。
その同じ時期、
新田義貞が群馬で挙兵。
戦いの舞台となった
神奈川県の稲村ケ崎。
義貞軍は鎌倉に攻め入り、
激戦のすえ、北条氏を倒しました。
得宗の北条高時は自害・・・
約150年続いた鎌倉幕府が
滅亡することになったのです。
思えば北条時宗など
立派な武士を生んだ北条家。
高時公も「太平記」や「増鏡」など
後世の記録では、
闘犬や田楽に興じた
暴君として書かれておりますが、
実際の史料は少なく、
のちに足利尊氏公を美化するために
誇張されたとも言われます。
しかし、
北条の一族郎党
870人と共に切腹したという
場所が今でも残っており、
武士として潔く切腹されたのでした。
源頼朝が開いた
鎌倉幕府滅亡の瞬間でした。
さて、今回は
菊池一族の生きた時代と
主に鎌倉幕府滅亡までを
見てきましたが、
同じ頃、九州でも
激しい戦いが繰り広げられて
いました。
次回は、九州での
菊池一族の戦いを
ご紹介したいと思います。
菊池一族と延寿鍛冶展(2017)は
2017年4月1日(土)〜5月7日(日)まで
菊池市の菊池夢美術館にて開催中です。
ぜひ、「菊池一族と延寿鍛冶展」で
延寿鍛冶の魅力を知っていただければ
幸いです。
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