菊池一族と延寿鍛冶展(元寇編1)
ここに
小さな石垣がある。
今では、
この街に住む人でさえ
忘れてしまった遥か昔の記憶。
しかし
この石垣は知っている。
かつて
日本が消滅するか 存続するか
この小さな石垣に
全てがかかっていたことを。
その名は「元寇防塁」。
私にとって「元寇」は、
教科書で「文永の役」「弘安の役」と
テストのために
年号を覚えたぐらいにしか記憶にない。
しかし、
あらためて調べてみると
それは、世界帝国が攻め、
日本という国が
根底から亡びるかもしれないという
真の恐怖を味わった大事件だった。
これは当時の「対馬」で
おこった記録である。
百姓の男は殺され
或は生け捕りにされ
女は取り集めて
手の平に穴を穿(うが)ち
手を通して船に結びつけ
一人も助かるものなし
(建治元年 日蓮)「一谷入道女房御書より」
なんと恐ろしい話しだろうか・・・
よく考えてほしい。
ある日、突然
こんな恐ろしい集団が
海から何万人も攻めてきたら
あなたならどうするだろうか?
しかも、その事件は
私が住む、この博多で
実際に740年前に起きた出来事。
確か学校の教科書では
元が攻めてきたけど
神風が吹いて助かったぐらいしか
記憶しなかったが
とんでもない。
自分が住んでる、
ここでも、あそこでも
もの凄い戦いが繰り広げられていた。
実際に博多の街は
燃やされ、多くのものが破壊されている。
そう考えて
この石垣を見てほしい。
この石垣には
当時、ヨーロッパをも震え上がらせた
あの蒙古大帝国に
敢然と立ち向かい
この国を護った祖先の
血と汗と涙の結晶がある。
そして
この防塁と同じように
日本を護るために
勇敢に戦った一族と
伝説の刀がある。
それが・・・
「菊池一族と延寿刀」である。
名刀「蛍丸」の作者
「来国俊」のDNAを持ち、
「同田貫」の祖となる日本刀。
それが「延寿(えんじゅ)」。
写真は今回、撮影した
重要刀剣
太刀 銘 国泰(延寿)
ちなみに今回、開催される
菊池一族と延寿鍛冶展では
日本刀が前半と後半で入れ替わるので
国泰は、
後半「2017年4月20日(木)から5月7日まで」
菊池市の菊池夢美術館にて展示。
そして、今回は
2017年4月1日(土)から
5月7日(日)まで
菊池市の菊池夢美術館で開催される
菊池一族と延寿鍛冶展を前に
延寿刀を作った延寿鍛冶と
菊池一族の話しをするのだが
その前に
元寇について語らないと
彼らの歴史は見えてこない。
まず、菊池一族が
どのような時代背景で
延寿鍛冶を誕生させたのか
というところから話しを進めてみたい。
これは九州の話しだが、
今でも東北のある地域では
子供が悪いことや夜更かしをすると
「モッコが来るぞ」と言われる。
これは「蒙古が来るぞ」という意味で
九州に現れた蒙古の恐ろしさが
遠く離れた東北まで伝わったという
エピソードである。
当時、どれだけの恐怖を
日本全域に与えたのかがわかる。
ちなみに九州では
「もくり・こくり」
「蒙古・高麗」と言われたが
悪い事をすると
「もくり・こくりに連れていかれるぞ」と
言えば、泣く子も黙るほど
恐ろしかったのである。
さて、元寇を語る前に
その255年前の「刀伊の入寇」
(といのにゅうこう)を
説明しなければならない。
「刀伊の入寇」とは、
寛仁3年(1019年)に
女真族(満州族)の一派とみられる海賊が
壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した
事件のことを言う。
その刀伊の軍団は
筑前国「怡土郡」
(これは現在の福岡県・糸島周辺)、
志摩郡、早良郡を襲い、
さらに博多を攻撃しようとした。
これは
自分の身近な人達の自宅が
糸島や早良区にあることを考えても
とても他人ごとではない話しである。
遥か昔、私の住んでいるこの街を
海外からの侵略者が襲っていた事実。
そして刀伊の軍団が
九州を攻撃したと書いたが
その軍団を
太宰権帥(だざいのごんのそつ)
藤原隆家が撃退したという。
諸説あるが
実はこの藤原隆家の子孫が
菊池一族と言われる。
在地官人の太宰少弐
藤原蔵規(藤原政則)が
先祖という説もあるが
どちらにしても
九州で活動していた武士にとっては
刀伊の入寇は
とんでもない事件だった。
さて、そこから時は流れて
文永5年(1268)、
蒙古に服属していた
高麗(朝鮮)の使者が
蒙古の国書を持って太宰府にやってきた。
その国書の内容を簡単に説明しよう。
「天に守られている大蒙古国の皇帝から
日本国王に手紙を送る。
私(フビライ)が皇帝になってから
高麗は我々に降伏して家来になった。
日本は昔から高麗と親交があるが、
日本は我々と国交を持とうとしないが、
存在を無視しているのか?
これからは日本も我々を父と思え、
このことが分からなければ
大蒙古帝国は日本に軍隊を送る。
が、それは私の好むことではないが
日本の国王はよく考えてほしい。」
というような内容だった。
個人的にはフビライに
とっても興味があるが
突然、国書を送ってきて
自分達を父と思え、
国交を持て、無視したら軍隊を送るぞ!
と言われたら
誰でも「はぁ?」と
怒りが込み上げてくるだろう。
しかし、当時の元は
遠く東ヨーロッパまでを支配下に置く、
世界最強の大帝国。
ヨーロッパまで支配下と
簡単に言うけど
では実際、今の時代の国で見ると・・・
ロシア、中国、韓国、北朝鮮、モンゴル、
カザフスタン、キルギス、
ウズベキスタン、タジキスタン、
アフガニスタン、トルクメニスタン、
イラン、アゼルバイジャン、アルメニア、
グルジア、モルドバウクライナ、ベラルーシ、
パキスタン、イラク、トルコ、ルーマニア、
ベトナム、ラオス、ミャンマー、インド、
ポーランド、シリア
を支配している大帝国が元となる。
ちなみに
ドイツやオーストリアあたりまで
元は攻め込んでいるから
どれだけ大きい帝国かわかる。
これが攻めてくる・・・
この国々VS九州なのである。
実際は、
指揮官に多数の国の人がいて
ほぼ高麗の兵だったとも言うが
日本人が経験したことのない
ある意味、
当時の日本人達からすれば
宇宙人が攻めてくるレベル。
そんなとっても運の悪い時期に
執権になってしまったのが
北条時宗。
ところが・・・
何が凄いって
若干18歳の時宗が
なんと・・
その世界最強の大帝国に
戦いを挑んでしまったのだ!
※資料:満願寺所蔵:伝北条時宗像(北条定宗像とも)
結果
この元寇のために生きたかのように
わずか34年という
短い生涯を終えるのだが
あらためて、凄いリーダーだったと思う。
よく言われるのが奇跡的に
嵐が起きて勝ったという話しだが
この時代の
20代〜30代の若い武士達は
勇敢に戦っているし
ただ神風で勝ったというわけではない。
もちろん、さっきの国の
全部が攻めてきたわけじゃないし
蒙古軍もバラバラだったとしても
忻都(きんと)を
日本征討の総司令官として
玄界灘に9百艘の船に分乗し
高麗側が6千人
蒙古軍が2万人で攻め来た。
それを九州にいた武士が守り、
その中に
今回のテーマ「菊池一族」がいた。
彼らは勇敢に戦っている。
最初におこった元寇
「文永の役」が1274年。
その時の菊池一族の主は
第十代 菊池武房(当時29歳)。
※資料:東福寺蔵:菊池武房
彼は1245年に生まれ、
1285年に亡くなっているので
まさに2回の元寇を経験しているし、
40歳で亡くなっていることを考えると
北条時宗と同じく、
この元寇のために
生まれてきたような人生である。
ちなみに武房は
宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の
蒙古襲来絵詞にも描かれている。
この人である。
彼は、九代 菊池隆泰の次男として生まれ
弟の有隆、叔父の西郷隆政とともに
蒙古と真向から戦った。
※ちなみに西郷隆政は、
あの幕末の英雄
西郷隆盛の先祖で
ご存知の人も多いと思うが
西郷隆盛は「菊池一族」。
さて、「刀伊の入寇」が1019年なので、
菊池武房が生まれた時にはすでに
海外からの侵略が起こっていて、
当然、刀鍛冶が九州にも必要だった。
武房は、菊池で
良質の砂鉄が採れることを
知っていたので
なんとしてでも
優秀な刀鍛冶を連れてきて
菊池の地で日本刀を作りたかった。
そこで大和国尻懸則弘の門人
弘村を祖とする国村を招いて
延寿鍛冶が誕生する。
諸説あるが国村は初め、
大和より京都に出て来国行に学び、のち
その女聟となっていたのを
菊池武房の要請に応じて菊池にやってきた。
だから、
蛍丸の作者「来国俊」とは親戚になる。
国村は
建治という時代の刀があることから
「1275年」前後に菊池に来たことになり、
この時期に
北条時宗が蒙古襲来に備え
九州探題(鎮西探題)を設置したとあるので
「1274年」の文永の役の影響もあって
延寿鍛冶は菊池で誕生したことになる。
やはり冒頭に言ったように
元寇について語らないと
延寿刀の歴史は見えてこないのである。
博多湾の穏やかな海を見ながら
遥か昔、この国を護るために戦った
菊池一族と延寿刀を想う。
その刀が今回、
700年の時を超えて
あなたの目の前に現れる。
今まで一度も
公開されていない
美術館にも飾られたことのない
特別重要刀剣、
重要刀剣が集まる展覧会の前に
彼らの美学を学んでいこうと思う。
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