恐ろしき一夜「徳冨 蘆花」

 

 

 

私は知らなかった・・・

 

自分の生まれ育った場所で

歴史的な事件があったことを。

 

私は それを

 

「徳冨 蘆花(ろか)」が書いた

「恐ろしき一夜」という文章で知った。

 

この「恐ろしき一夜」は、

明治初期に熊本で起こった

「神風連の乱」について、

 

蘆花自身の経験を交えて書かれた

文章だった。

 

ちょうど武士という存在が

消えようとしていた時代の瞬間を

切り取ったような事件である。

 

それでは、

蘆花が書いた文章を読みながら、

その時代にタイムスリップしてみよう。

 

 

徳冨 蘆花

「恐ろしき一夜」より

 

明治九年十月二十四日、秋の夜深けて、

星一天、城下の士女夢まさに濃かに、

 

種田少將は泥醉して新妾と臥し、

縣令の宅には一基のランプ密議に鳩めたる

縣官四五人の顏を靑く照せる二更の頃ほひ、

 

二百餘人の健兒、城の西南樹墨の如く黑き

段山藤崎八幡社殿に集り來れり。

 

腹卷小手脛當に、烏帽子直垂の者あり。

髪振り亂して、白綾の鉢卷したる者あり。

色黑く髯逞しき大丈夫あり。

 

十四十五の花の如き少年あり。

傳家の寶刀は腰に横はり、

雪の如き襷(たすき)を

十文字に衣の袖を絞る。

 

社の神官渠魁の一人たる加屋は、

神前に跪きて、衆に代つて拜念し、

彼等の兩人は霜の如き劍を拔いて

神前に舞へり。

拜は終り、劍の舞は終りぬ。

三通の太皷鳴れり。

 

首魁大野、

加屋、上野、神殿の石階に踞して

部署を定めぬ。

 

一隊は縣令安岡の宅へ、

一隊は鎭臺司令長官種田の宅へ、

一隊は中佐高島、大島、兒玉の宅へ、

一隊は實學黨の太田黑の宅へ、

一隊は縣廳へ、本隊は鎭臺へ。

 

時三更に近く、風露滿天銀河空に横はり、

霜白く、風寒し。

「夜は寒くなりまさるなり

唐衣うつに心の急がるゝかな」二百の健兒、

 

霜を蹈み枚を啣むで藤崎社頭を出でぬ。

吾家は熊本の東郊にあり。

 

種田少將、高島中佐等の寓居とは、

わづかに一條の小川數畝の圃を隔てて、

夜は咳嗽の音も聞ゆるばかりなりき・・・・

 

 

このように書かれた徳富蘆花の家の、

 

数メートル先に

私の祖父の家があり、

私はここで育った。

 

昔から

この付近で遊んでいたが

子供だったので

「徳富記念園」に興味もなく、

 

ましてや、「神風連の乱」のことは

高校の教科書で知ってはいたが、

こんな身近に起きたとは知らなかった。

 

私は、これから紹介する文章を

初めて読んだ時、鳥肌がたった。

 

近所だったので

あまりにもリアルで

その距離感、音や匂いまでも想像した。

 

今は、近代化され、目の前には

「産業道路」という大きな道が走っている。

 

 

ここは

熊本の中心にある道路で

この道から電車通りに出れば、

すぐ熊本城が見える。

 

私が子供の頃はビルも少なく、

この場所からでも熊本城が見えた。

 

改めて、こうやって見ると

どこにでもある普通の道路だが

まさか・・・

こんな場所で

 

教科書にも掲載された

「神風連の乱」があったなんて

全く知らなかった。

 

そんな

私の想いを感じて

さらに続きを読んでいただきたい。

 

 

徳富蘆花「恐ろしき一夜」より

 

十月二十四日の夜、

吾等は晩くまで睡らでありき。

 

姉上病重く、危かりければ、

母上を始め多くは枕邊にあり、

醫師も通夜し居たり。

 

夜の更け行くまゝに、霜氣膚に迫り

枕邊の行燈の光も氷りつきたる様に薄らぎ、

 

當時九歲の吾は震ひながら

母上の膝に倚りてありしが、

何時しか眠りこけぬ。

 

忽ち耳元に母上の聲して、

吾は蜜柑の山の夢より呼び覺まされぬ。

 

此は母上の姉君に向ひ

「お常さん、苦しからうけれども、

一寸の間呻吟かずに居てお吳れ、

何様たゞならぬ音だから」と

云ひたまひたる聲なりき。

 

聲終らざるに、川向ふの方にあたりて

怪しき物音、

姉君の呻吟の聲にまじりて聞えぬ。

 

姉君は唇を噛んで默したまひぬ。

吾は一身耳になりて傾聽す。

忽ちばたばた足音聞ゆ。

 

頓て咽突かるゝ鶏の苦しむ様なる一聲、

絲の如く長く曳いて靜かなる夜に響きぬ。

 

一瞬の後、忽ちあつと一聲女の聲して、

其聲のばつたり止むと思へば、

更にひいと一聲悲鳴の聲悽く耳を貫き、

ばたばた足音響き、

戶障子の倒るゝ音して、

其後は截つたる様に靜になりぬ。

 

母上は眞蒼になれる年若き醫師を

叱り励まし、帯引しめて、

「御身も男ではないか、來て御覧」と言ひつゝ、

余が右の手を執つて引立て、

二階に上りて、

北の雨戶を一枚がらり引明けたまへば、

此はいかに、眞黑き背戶の竹藪越しに空は

一面朱の如く焦れたり。

 

城の方を見れば彼處に火あり、

此方にも火あり、火は一時に五ヶ所に燃え、

焔は五ヶ所より分かれ上りて紅く空を烘り、

風なきにざわつく笹の葉の數も

鮮かに數へよまるゝばかり。

 

耳を澄せば、何とも知れぬ物音騒が

しう火焔の間に聞ゆ。

 

强盜の騒と思ひしに、

此れはまた凄じき火事なり。

然れど此の火事よも

尋常の火事にはあらじ・・・・

(一部省略)

 

限りなく長かりし夜は

やうやうあけて、

生白き曙色、雨戶の節穴より覗き込みぬ。

戶あくれば、

夜は灰色に明けたり。

 

日も出でながら薄寒く、

言ふべからざる不穩の空氣はおどおどしく

空を包み地をおほひぬ。

昨夜の事は恐ろしき夢なりしか。

 

夢の様にもあり、否夢ならず、夢ならず。

血腥き報知は、一つ聞え、二つ聞え、

果は、夕立の如く一時に耳をうてり。

 

「種田がやられた」

「えつ、其なら昨夜のあの聲は、

それだつたか?」

「安岡がやられた」

「えつ」「小關參事も」。

「えつ」「某々中佐も」

「えつ」「鎭臺は皆やられた」。

敵は誰ぞ。或者は云ふ、

 

 

昨夜火光に驚きて

家を飛び出さんとしたるに、

烏帽子直垂に白刄提げたる

人五六人前を通りしかば、

膽を潰して逃げ込みたりと。

 

或者は云ふ、昨夜晩く他より歸りしに

某辻に到れば、道の眞中に倒れたる者あり、

提灯さしつくれば、

洋服着たる男の大袈裟に切られて

 

まだ溫かき血に浸り居るなり、

ほつと驚きて駈け出さんとする向ふへ、

白刄の光きらりと閃きて、

闇中より黑影ぬつと出で、

 

吾がもてる提灯のあかりに透し見て、

こらこら此方へは通ることはならぬとて

追歸されたり。

 

或者は云ふ、藤崎神社に勢揃する

結髪横刀の群を見たりと。

 

「やつたな! 偖は神風連!」

神風連! 神風連!

大戰爭、大戰爭!

聲は熊本の一端より一端を簸れり。

 

一夜火光に驚き、

劍影に驚き、銃聲に驚き、

叫聲に驚き、血に驚き、

 

一夜戶を閉ぢて戰きたる熊本は、

夜明け戶開くると共に蜂の巢の

打散らされたる如く騒ぎ立ちぬ。

 

 

訛傳は訛傳生み、

腥き風說は螢の如く飛び、

霰の如く散れり。

狼狽したる人影は彼方此方に走せ違ひ、

 

恐慌の風は人の

眼より口より顏より手より足より湧きて、

市中の巷々街々を吹き廻りぬ。

 

此時父上は薩境近き故鄕の祖父君を省して

歸途季の姉君を將ゐて

城下より十里ばかり離れし

小川驛に宿りたまひしが、

 

此夜姉君いたく胸騒ぎ心轟きて

如何にも事ありげに思はれしかば、

 

翌朝は早く立ちて城下より

六里の松橋驛まで來たまへば、

果然熊本騒擾の事聞えたり。

 

尻ごみする車夫に三倍の賃を與へて、

宇土驛のはづれまで來たまひしに、

熊本より素足のまゝ

逃げ來る者往還に引もきらず。

 

父上はあひたまひし知人の逃れ來るに

姉君を託し、ひとり歸りたまひぬ。

 

神風連爆發、鎭臺、縣廳、實學連、

難に遭ひしとの風聞に、

緣家故舊皆父上の安否を

氣遣ひて訪ひ來ぬ。

 

翌日、粟の收穫に出でし家僕は家より

少しはなれし粟畑の中に隠しありしとて、

竹筒、繩梯子、火繩なんど持ち來りぬ。

 

竹筒の中には焔硝を詰めありき。

時は風説を篩ひて、

恐慌の中より事實を漉し出せり。

事実は左の如くなりき。

 

廿四日の夜半霜を蹈んで

藤崎社頭を出でたる

二百餘人の健兒は

一夜銀杏城下に荒れたり。

 

夜明け幕落ちたる時は、

司令長官は首なき骸となつて血に染りし

寢床に横はり、縣令は脇腹より流れ出づる

臓腑を押へて芋畑に伏し、

 

街にも、兵營の内外にも、縣廳のほとりにも、

彼等が刀の下に斃れし死骸累々たりき。

 

種田に向ひたる一隊は、

難なく蹈み込みて彼が首を打落せり、

側に臥したる妾も刀下に死しぬ。

彼女は十五の少女なりき。

 

 

妾にはならじと拒みて聽かざりしを、

貧しき父母は金の爲に强ひて

彼女を種田の許に連れ來り、

 

十圓の金を受取り女を殘し置きて

欣々として歸りしは其日の晝頃なりき。

 

吾等が聞きし最後の悲鳴は、

種田が東京より連れ下れりし

妓小勝が腕に傷負ひて

隣家に逃げ込みし聲なりき。

 

彼女は東京なる父母に

 

「ダンナハイケナイ、ワタシハテキヅ」の

 

電報かけて、名高くなりぬ。

 

種田がおめおめ寢首かゝれし醜態に引易へ、

彼が書生は棒提げて敵を追つかけ、

終に棒切り折られて死しぬ。

 

縣令安岡の宅に向かひたる一隊は、

縣令參事大警部等が恰も

神風連鎭撫の事を談じ

居たる會議の席に切り込んだり。

 

それと見るより、

參事小關は立ちざまに、

椅子を投げつけたるも、

敵は一刀に拂ひのけて、

勢猛く斬り込み來れり。

 

大警部仁尾は、縣令に聲をかけ「刀は?」

「そ、其の簞笥に!」

簞笥の引出明くる間一刀腕を切られながら、

仁尾は安岡を後に庇ひて

二刀三刀打合ひたるも、腕弱りてばつたり倒れ、

小關は切り倒され、安岡は瞎を抉られぬ。

 

敵は「もう好いもう好い、

少し活かして苦しますが好いわ」

云ひすてゝ出で去れり。

 

 

安岡は四ばひになりて

裏口より

芋畑に這い込み、

 

創口より流れ出る腸を押へて

此處に伏したるが、程なく病院に死しぬ。

 

翌日其のあとを見れば、

血は絲の如く裏口より芋畑に曳きて、

靑き芋の葉に

赤き五指の痕掌の痕斑々たりき。

太田黑の宅に向ひし一隊は失敗せり。

 

彼は夫れと氣づくより早く竊に

燈吹き消して裏口より茶畑に逃れ、

銀裝刀一本腰にして

堤傳ひに二三丁離れし知人の宅に逃れぬ。

 

神風黨は家に入り込み、暗中を探りて、

蒲團かぶりて臥したる

夫人の顏に探りあてしが、

髯なきを認めて退き、

終に家に火をかけぬ。

 

一家取るものも取りあへずして逃れ、

子供を置き忘れしを、

妾某躍り入りて救ひ出せり。

 

太田黑氏は其後直に吾家に逃れ來りて

奥の一間に潜み、

吾等は堅く名を呼ぶことを禁じられて、

唯「叔父さん」とのみ呼びけり。

 

其他の諸隊は、成功したるもあり、

失敗したるもあり。鎭臺に向ひたる本隊は、

直に兵營に火をかけたり。

 

驚きて寢衣のまゝに走せ出づる兵士を、

待ち設けたる彼等は

「一つ、二つ、三つ……」

かけ聲して片端より斬り倒しぬ。

 

兵營の火を見て驚きて

駈けつけたる將校役人を、

彼等は闇中より

躍り出でゝ一々斬り倒せり。

 

洋服なる者は、斬りぬ。

馬上の者は、斬りぬ。

靴の音する者は、斬りぬ。

狼狽せる者は、來ては斬られ、

來ては斬られ、辻に斬られ、

營前に斬られ、

死骸は随處に算を亂して倒れたり。

 

 

此時火は五ケ所に起り、

火光空を焦し、

夜暗き所には大喝悲鳴の聲起り、

 

火明かなる處には白刄閃き紅血迸り、

提燈は流星の如く道に沿うて飛んでは落ち、

 

飛んでは落ち、馬蹄響いて忽ち倒れ、

二百幾口の實刀は渇蛇の如く

飽くまで鮮血を吸へり。

(一部省略)

 

 

十有九年瞬時に過ぎぬ。

彼の恐ろしき一夜に、

殺せし者も、殺されし者も、

今は久しく靑塚の下に睡りて、

 

世は開明になり、悧巧になり、

隨つて輕薄になり、臆病になり、

彼の恐ろしく頑固なる恐ろしく

 

眞摯なる恐ろしく熱心なる神風連なるものは、

舊時代の昔語りとなりぬ。

 

「夜は寒くなりまさるなり

唐衣うつに心の急がるゝかな」

刀を按じて歌ひし男今何處にかある。

仰げば一輪の月高く天心にかゝりて、

秋の夜いたくふけぬ。

 

「恐ろしき一夜」より

 

 

この文章を読んだ時に

とてもショックだったが、同時に

この舞台となった「徳富記念園」に

行ってみたいと思った。

 

ずっと、昔から知っていたが

関心がなかった場所。しかし、

 

40歳も過ぎて、歴史を学べば

この場所が

とても神聖な場所に思える。

それと同時に

自分があまりにも

歴史を知らなかったことを後悔した。

 

 

ここが「徳富記念園」。

 

明治時代を代表するジャーナリストであり、

歴史家でもある

徳富蘇峰(とくとみそほう)と、

 

この「恐ろしき一夜」を書き、

小説『不如帰(ほととぎす)』などで知られる

弟・徳冨蘆花(とくとみろか)の二人が

少年時代を過ごした住居跡。

 

 

ここには記念館と旧居があり

約2000点に及ぶ資料や遺品が

展示されている。

 

そして

蘆花が「恐ろしき一夜」を体験し

舞台となった当時の家がこちら。

 

 

この場所は

私が生まれる前から

ここにあって

幕末の動乱を目撃した建物。

 

今ではビルに囲まれ、当時から残る住居は

ここだけしかない。

 

 

 

想像してみた。

 

このビルがなかった

江戸から明治にかけて、

ここには多くの武士が住んでいた。

 

肥後金工で有名な

中根平八郎も細川藩の武士であり、

この大江という場所に住んでいたという。

 

この場所から歩くこと数分。

神風連の乱の現場がある。

 

さっそく行ってみることにした。

 

 

産業道路をわたって川が見えてくる。

 

今ではビルが立ち並んでいるから

遠く感じるが、

木造平屋が並んだ武士の時代には

 

蘆花が書いたように、近所の声が

よく聞こえたと思うし、

 

深夜に「神風連の乱」のような

大きな争いが起これば、近所は

本当に恐ろしかったにちがいない。

 

 

ゆっくりと歩く。

蘆花の描いた世界を想像しながら・・・

 

 

この場所で「神風連の乱」が起こった。

 

この反乱は「秩録処分」という

華族や士族に与えられた家禄と

 

維新功労者に対して

付与された賞典録を合わせたものを

全廃した政策や

 

「廃刀令」により、

明治政府への不満を暴発させた

一部士族による反乱で、

 

この事件に呼応して

秋月の乱、萩の乱が発生し、

翌年の「西南戦争」へとつながった。

 

 

さらに歩いていくと

記念碑が見えてきた。

 

 

 

今から139年前の10月。

この場所で起こった「神風連の乱」。

 

私は、何も知らずに生きてきたが、

 

多くの先人達が

情熱を持って生きた歴史の上に

今の私達が生活していることを考え、

 

あらためて感謝するとともに

追悼の意を表し、

永遠の平和を祈念した。

 

 

ちなみに

徳冨蘆花という号の由来は、

 

自ら述べた

 

「蘆の花は見所とてもなく」と

清少納言が書きぬ、然もその見所なきを

余は却って愛するなり・・」

 

から来ている。

 

一見、忘れてしまいそうな

見所のない場所にも

大切な思い出があり、

 

私が40年間、気付かなかった

この場所でも

歴史に残るような出来事が起こっていた。

 

「見所のないような

地味な場所にも美しい花は咲いている。

そして

歴史という地盤の上に

素晴らしい「花」を咲かせよう」

 

そう蘆花が

教えてくれたように感じた。

 

 

そして

 

 

徳富記念園には

 

 

たった一文字だけ

 

 

 

「花」という文字が「蘆の花」のように

 

さりげなく

 

そっと 飾られていた。

 

 

 

資料:恐ろしき一夜 徳冨蘆花

 

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