旧伊藤伝右衛門邸
吾なくば
わが世もあらじ人もあらじ
まして身を焼く
思(おもひ)もあらじ「柳原白蓮」
ここは、「柳原白蓮」と
炭鉱王「伊藤伝右衛門」が暮らした
福岡県・飯塚市の「旧伊藤伝右衛門邸」。
明治、大正、昭和にかけて
この筑豊地域は
当時石炭エネルギー供給地
日本一の場所でした。
そんな活気溢れる筑豊で
伊藤伝右衛門は活躍しました。
最初の妻を失った
伊藤伝右衛門は
1911年(明治44年)に
伯爵柳原前光の娘
燁子(あきこ-白蓮)を
迎え入れる事となります。
50歳にして、25歳の若き花嫁を
迎えることになった伝右衛門が、
日本建築の粋を集めて改築したのが、
この「旧伊藤伝右衛門邸」です。
和洋折衷の邸内は、
どの部屋も細部にまでこだわっており
華麗で贅を尽くした屋敷に
仕上げられております。
まだ武士の文化が
身近にあった時代の
建築物だけあって
その薄暗い陰翳の中に
家造りをする美学があります。
気候風土や、
建築材料などの関係で
暗い生活を余儀なくされた日本人は、
自然を調和する
独自の美意識を生み出していきました。
この建築には
西欧と日本の文化が
融合した美があり、
それを見ることも楽しみの一つです。
話題になったNHKの朝の連続ドラマ
「花子とアン」の影響もあって
屋敷の中は
観光の皆様で溢れておりました。
ドラマのモデルになった
2人が実際に使ったものが展示され、
皆様楽しんで見学されています。
さて、
「伝右衛門」と「白蓮」は
親子ほどの年齢差がある夫婦でした。
この空間に入りますと
「伝右衛門」の「白蓮」に対する
想いを様々な場所で発見します。
特に白蓮の居室(2階)は、
日本庭園を一望できる
見晴らしの良い部屋で、
銀箔で作られた押入れや
水上泰生が描いた
蝶をあしらった天袋など
様々な意匠がこらされており、
白蓮の歓心を得るための
細工さえあったとされるほど、
豪華絢爛な造りとなっています。
朝化粧(あさけはひ)
五月となれば 京紅の
青き光も なつかしきかな
白蓮
柳原白蓮がここで暮らした時に
詠んだ一首で、五月の光の中で
朝化粧した時に、
ハマグリの中の口紅に、
なつかしい京都を飯塚から
しのんで詠んだ歌です。
大正四年(1915年)発刊の
白蓮第一歌集「踏絵」をはじめ、
その後、「白蓮自選歌集」や
「流転」などに収録され、
白蓮がこよなく愛した歌です。
※寄贈 飯塚商工会議所
女性名誉会長 小野山とし子氏
当時のままの襖。
これが銀箔で作られた押入れですね。
伝右衛門と白蓮は
共に約10年間の時をこの地で過ごし、
波乱万丈の恋物語を展開します。
白蓮は絶縁状の公開後
この邸に戻る事はなくなりますが、
部屋はそのまま残されており、
当時の様子を伺い知れます。
敷地面積約7570平方メートル、
建物延床面積
約1020平方メートルの邸内には、
贅を尽くした建築美と
炭鉱王伊藤伝右衛門と
歌人白蓮の波乱に満ちた恋物語を
随所に感じる事ができます。
玄関には
傘立てなどなく
傘を収納するスペースが設けられ、
美しく整理整頓されています。
お茶室も発見。
白蓮がお茶を稽古したのでしょうか。
お道具がきちんと整理できる場所も
用意されています。
いかがでしたか?
日本建築の粋を詰め込んだ
建築美と二人の恋物語を
両方楽しめる
旧伊藤伝衛門邸に遊びにいかれては
いかがでしょうか?
資料:旧伊藤伝衛門邸公式サイト
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