秋月を訪ねて(その2)

 

秋月氏は

種雄(たねかつ)を初代として、

 

鎌倉時代の初めから

400年近く、この福岡県の秋月、

朝倉地方を領有支配した武家です。

 

もともとは、原田姓だったのですが、

この福岡県甘木の秋月に移り住み、

姓を「秋月」と改めました。

 

二代の「秋月種幸」の時に元寇、

 

六代の「秋月種貞」の時(1338年)には、

多々良浜にて菊池勢とともに

足利尊氏を迎え討ち、

 

七代の「秋月種高」の時には、

日本三大合戦のひとつ

筑後川の戦い(正平14年)

(1359)にも参加、

 

戦乱に明け暮れ、昨日は足利、

今日は宮方(後醍醐天皇側)と

生きるために必死で戦っています。

 

さらに

12代の「秋月種照」の時には

応仁の乱にて中国の大友と組み、

西軍の「山名宗全」に従い戦います。

 

15代の「秋月種方」の時には

毛利氏と通じて大友氏と抗争を続け、

 

ポルトガルの宣教師を保護し、

パワーアップした大友軍二万余騎が

秋月に押し寄せ、種方は城を奪われ、

戦死します。

 

 

その時、幼かった息子「秋月種実」は

周防の毛利元就を頼って中国に落ち延び、

庇護され、苦労した幼少時代を過ごします。

 

やがて、時は流れ

毛利によって援軍を得た種実は、

秋月を奪還します。

その時期や経緯は諸説あり、

明確ではありませんが、

 

種実が帰還した報せを聞いて

旧家臣が参集し、

 

秋月氏は

再び勢いを取り戻しました。

 

 

前回の「楢柴」のエピソードは

ちょうど、この後の話です。

 

勢いをつけた秋月種実は

九州でも大きな力を

持つことになります。

 

そして島津との盟約を尊重して

なんと、あの「豊臣秀吉」と

戦うことを決意。

 

 

人間と言うのは

つい、勢いを持つと

自分を客観的に

見れなくなるのでしょうか?

 

種実は、秀吉軍の情報を持たず、

その強大さを知らないまま、

秀吉軍と戦う事を決意します。

 

 

もちろん、

あの天才軍師「官兵衛」もいる

最強の秀吉軍と戦うのですから、

 

家臣の中には「無謀だ」と

主張した「恵利内蔵助暢堯」

(えりくらのすけのぶたか)のような

冷静な人物もおりました。

 

しかし、彼の主張は聞いてもらえず、

恵利内蔵助暢堯は、

妻子を刺殺して切腹し、

自らの命を投げ出して主君「種実」を

諌(いさ)めますが、

秋月氏は秀吉軍と戦うことになります。

 

 

その後、

秀吉との決戦を覚悟した秋月勢は

近隣の国人衆の応援も得て2万人余が

古処山城を中心に陣を構えました。

 

やがて・・・

 

豊臣秀吉の軍勢の凄さに圧倒され、

突然現れた「一夜城」に肝を潰して

秋月勢は戦意を喪失し、降伏。

 

 

その後、天正15年(1587)5月に

島津義久が降伏して豊臣秀吉の

九州平定が完了。

 

秋月種実は一族や家臣とともに

日向の新封地に移ります。

 

この時、種実は

「知行は十石でもよいから

秋月に留まりたい」と嘆いた

と言われています。

 

 

今でも

「秋月」と呼ばれるこの場所には

このような「秋月氏」の

歴史があったのですね。

 

彼らが愛した理由がわかる

素敵な城下町が

今もここには残っています。

 

次回は素敵な城下町を

訪ねてみましょう。

 

秋月を訪ねて(その3)はコチラ

 

 

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

コメントを残す

XHTML: You can use these tags: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

武士道