味土野(細川ガラシャ幽閉の地)前編
異変がきた。
これほどの異変は、忠興も「たま」も
いや それどころではなく、
この変事に見舞われたこの当時の
歴史そのものも夢想すら
できなかったほどのものであった。
明智光秀の反乱である。
この年、天正十年の夏、
「たま」の実家の父の光秀は
信長から命ぜられて
中国筋の戦場にいる
羽柴秀吉を応援すべく
出陣の支度をととのえた。
当然、
光秀の指揮下にある細川家も
光秀とともに
出動しなければならない。
光秀は、丹波亀山からゆく。
細川家は日本海岸の丹後宮津からゆく・・・
これは
「司馬遼太郎」の
「胡桃に酒」という小説に出てくる文章。
※「故郷忘じがたく候・短編」
20代の時に、これを読んだ私は
「本能寺の変」という
謀反をおこした明智光秀の娘「たま」。
のちの「細川ガラシャ」の生涯に
衝撃を受け、関心を抱く
きっかけになりました。
さらに「司馬遼太郎」は描きます。
忠興はいった・・・
日州が大罪の人となった以上、
その縁者である「たま」も当然ながら
連座せざるをえませぬ。
罪を天下に謝するため、
離別つかまつりまする。
(申したな)と、
幽斎にとってすべて
おもうがままになった。
が、
離別はこの若い夫婦にとって
あわれすぎると思った。
「離別が当然である。
が、光秀がほろびなば、
たま に帰る実家があるまい。
離別の形をとって
山中に幽閉せしめるがよかろう」・・・
「幽閉」
という言葉を意識したのも
この小説。
きっと「日本史」好きの皆様なら
誰でも知っている「本能寺の変」。
そして「細川ガラシャ」が
明智光秀の娘であり、
細川忠興(三斎)公が
「幽閉」したことも多くの皆様が
ご存知だと思います。
では、
その「幽閉の地」は
どこにあったのでしょうか?
そして
現在、その地は
どうなっているのでしょうか?
と言うわけで・・・
実際に、自分の目で確かめたいと
思いました。
引き続き、
茶道「肥後古流」白水会の皆様と
「細川家の美を巡る旅」に来ています。
まず、
一人でレンタカーを貸りて行くか・・・
というと、正直、
道に迷うかもしれないような場所です。
皆様と一緒だからこそ
実現した貴重な旅行です。
本当にありがたい・・・
さて、
私達の乗ったバスは
日本三景「天橋立」から
細川ガラシャ幽閉の地「味土野」へ
むかっております。
車を走らせるたびに
どんどん 田舎と言うか
人の気配を感じない・・
と言いますか。
頭で「幽閉」という
イメージがあるので
かってに重く暗いイメージです。
おそらく、
一般の「ツアー旅行」では
まず、
訪れることはないと思います。
あらためて
細川家の文化を愛する
「肥後古流」の皆様だからこその
「特別な旅行」なのだと実感しました。
いろいろなことを考えながら
バスは進みます。
ここで
「本能寺の変」当時の
「細川忠興とガラシャ」についての
関係図を作ってみました。
細川ガラシャは、
本名を「玉」と言います。
よく「ガラシャ」と言われますのは
キリスト教における洗礼の名前。
織田信長の家臣である細川幽斎、
そして
その息子の細川忠興(三斎)と
同じく信長の家臣である
明智光秀の三女である「玉」は
天正12年(1574)、信長の命令で
婚約することになるのです。
玉も忠興も、まだ12歳でした。
そして4年後の天正6年(1578)、
2人が16歳になるのを待って、
婚儀となりました。
※写真は勝龍寺城への輿入れを描いた図を撮影。
長岡京市教育委員会:所蔵
細川家の居城である山城の勝龍寺城で
挙式が行われ、2人は夫婦になるのでした。
玉は「容貌の美麗比倫なし」と
いわれるほどの美女に成長しており、
忠興のほうも凛々しい若武者に
成長していました。
2人は深く愛し合い、翌年には
長女が誕生し、さらに翌年には
長男の「忠隆」が誕生しています。
さらに
忠興には信長から
丹後12万石が与えられ、
武士としても認められた時期。
2人にとっては
最高に幸せな生活を
過ごしていました。
ちなみに
「玉(ガラシャ)」と明智光秀の
親子関係図を作ってみました。
真ん中に書いていますが
「玉(ガラシャ)」は三女です。
明智も細川も
織田信長にとって重要な家臣であり、
こんな幸せな日々が続くと
誰もが思っていたと思います。
しかし、
あの「本能寺の変」で
光秀が謀反を起し、幸せな生活が
突然、深く悲しいものになります。
光秀は、
細川家に味方になるように願いますが、
これを細川家は断ります。
これを味方していれば、
のちの細川家はなかったかも
しれません。
この時、
明智と細川の縁をつなぐはずの
「玉(ガラシャ)」は、何も出来ず
深い悲しみを抱いたと思います。
結局、光秀は
中国地方から駆け戻った
羽柴秀吉と山崎で戦い惨敗。
小栗栖(おぐりす)村に敗走したところを
武者狩りの農民に襲われ、
最期を遂げることになりました。
自分の父を殺された悲しみを抱え、
幽閉されたガラシャ。
そのガラシャが
幽閉された場所にむかって
今、バスは走っています。
幽閉の地「味土野」。
小説でしか読んだことのない
あの場所へ実際に行く・・・
「味土野」への想いが溢れます。
ちなみに 司馬遼太郎は
「味土野」を「水戸野」と書き、
このような文章で紹介しています。
「丹波船井郡にある水戸野峠である。
山中に 山伏寺 がある。」
地図で見ますとこのような
位置になります。
※google mapさんのA〜Jの印は
関係ありませんが、この付近が
「味土野」です。
この「味土野」は
丹後で名峰の一つに数えられる
「金剛童子山」(613メートル)の
中腹に広がる台地にあります。
「金剛」?
どこかで聞いたような・・・
そう言えば
細川忠興公が
九州・熊本の八代に連れていった
福岡・太宰府の刀工「金剛兵衛盛高」。
この「金剛兵衛」も
山伏だったと言います。
司馬遼太郎が書いた
「水戸野峠」
「山中に 山伏寺 がある。」
というキーワードに
「修験者」の空気を感じたので
調べると
やはり「金剛童子山」の頂上に
修験道の開祖「役行者(役小角)」
が祀られているお堂がありました。
さらに
忠興公が再建した
福岡の「英彦山」
金剛兵衛の「宝満山」にも
修験道の開祖「役行者(役小角)」が
祀られ、山伏と刀鍛冶が存在します。
「金剛童子山」の「金剛童子」とは
「蔵王権現」と同体とされ、国土を守り
魔障や災いを降伏し、
修行者を護る神様のこと。
しかし、もともと「金剛童子」は
船の安全を祈る
「水の神様」であったと言います。
実は
「海洋民族」と「製鉄技術」は
日本刀の歴史にとって
重要な意味があります。
それは
「製鉄技術」を「海洋民族」すなわち
船に乗る「航海技術」を持った人達が
海を渡り、日本全国に
ひろげていったからです。
司馬遼太郎が
「味土野」を「水戸野」と
「水」のつく文字をつかっていたこと
丹波 船井郡に 「船」という文字
「山伏」と「刀鍛冶の製鉄技術」。
「金剛童子山」の「金剛童子」が
船の安全を祈る
「水の神様」であったことなど
不思議なものを発見しました。
忠興公が「味土野」に
幽閉した理由として
ただ、人が入らない「田舎」だから
という簡単な理由ではなく、もっと
大切なものを「守る」ための
「神聖な場所」であったように思います。
さらに「味土野」と同じ
「金剛童子」を祀る神社が
「岡山県」にもあります。
この場所も
中世以来河川交通の最先進地であり、
高瀬舟が様々な物資を運ぶため、
船頭達が、「船の守護霊」として
「金剛童子」を祀ったと言われています。
日本刀にお詳しい皆様はご存知のように
岡山と言えば「備前長船」が有名ですね。
製鉄の技術が盛んなところ。
味土野の「金剛童子」から
武士が神聖なものとして守ってきた
何かを感じました。
また、
この「味土野」からは
九州「英彦山」と同じ空気を感じます。
現代なら、このように車で行けますが
当時は「馬」と「歩き」。
しかも冬は雪が大量に積もり
道がふさがる場所もあるとか・・・
あえて
こんな深い山の奥に入り、
修行をしながら
人が生活する理由や精神に
神聖なものを感じるのでした。
さらに、私は
やはり
細川忠興(三斎)公が、ガラシャさんを
深く愛していたと感じました。
修験者に縁のある人達に
彼女を守る役割を
してもらったのではないか・・・
そうでなければ、
この深い山の奥で数人の
お付き人とガラシャさんが
とても生活できるはずがない。
何らかのサポート。
それは食料や生きる知恵という
問題だけでなく、
何かあれば武力を持って
戦い、守るのことも含めて
サポートしていたのではないか。
味土野という寒村で
ガラシャを幽閉したのは、
世間に対してのケジメと
彼女を手放さず、守り、
時期を見て自分のもとに
帰ってきてもらうための考えだった。
戦国一の美女と言われたガラシャを
秀吉から守ることも考えた。
そう感じました。
そんなことを考えているうちに
バスから
ある「標識」を発見しました。
ついに到着した!
と思ったら・・・
そこに書いてあるのは
ガラシャの里 6km
弥栄町スイス村 8km
スイス村・・・
スイス・・
なんで? スイス村?
という疑問あり、笑いあり。
スイス村は置いといて
「えっ!
ガラシャの里まで
ここから、さらに6km?」
しかし、
この乗っているバスでは
今から行く道は狭くて走れない?
バスガイドさん
「それでは、タクシーに乗り換えます」
「皆さん、おりてください」の声。
では降りましょう!
と そこには
タクシーが数台
待機してあります。
なんて用意のいい。
素晴らしすぎる!
私達は今からタクシーに乗り換え
ここから、さらに6km
深い山に入る・・・
う〜ん。
かなり深いとこまで来たと思ったのですが
さらに深い場所へ行くのか・・・
しかし、ここまで来たら
後には引き返せません。
それでは行きましょうか!
皆様も私達と行った感覚で
どうぞお楽しみください。
さあ!
いよいよ
細川ガラシャ幽閉の地「味土野」へ
後編へと続きます。
長いブログを読んでいただき
ありがとうございます。
「司馬遼太郎」の
「故郷忘じがたく候」・短編
「胡桃に酒」という小説に
この「水土野」が描かれています。
これを読むとさらに
細川忠興・ガラシャの世界に
引き込まれます。興味のある方はぜひ!
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マキャベリズム(戦国期は当然)の権化の様な忠興ですが、玉を本当に愛していたのでしょうね。