英彦山と修験者を訪ねて(後編)
むかしむかし 筑紫の国、
佐々木 源左衛門の息子で、
七歳の「花月」は、
毎日「英彦山」の四王寺まで
学問を学びに行っておりました。
ある日疲れて、
石に腰掛け、休んでいたところ
突然、「天狗」があらわれ、
「花月」はさらわれてしまいます。
父 源左衛門は、嘆き悲しみ
とうとう出家して僧になり、
いとしい「花月」を探して、
諸国を巡ります。
そしてある春の日のこと、
京都「清水寺」に参った時、
「花月」と名のる若い芸人が歌をうたい
舞をまうところに遭遇します。
それを見て、我が子であることを確信した
源左衛門は名乗りを上げます。
喜びの父子の対面を経て、
花月は
七歳で天狗にさらわれてからの旅路を
振り返る舞を見せた後、
父と一緒に仏道の修行に出ました・・・
これは「世阿弥」によって作られた
謡曲「花月」のストーリー。
室町時代の「英彦山」は
「世阿弥」が題材にするほど
全国的に有名だったことを意味します。
しかも「天狗」という
神秘的な存在もまた
英彦山は持っていたのでしょう。
そんな伝説の山
「英彦山」にやってきました。
ここは英彦山の麓(ふもと)。
現在、この麓からは
このような「スロープカー」が、
多くの観光客の皆様を上の
「奉弊殿」まで運んでくれます。
では乗ってみましょう。
この「スロープカー」で
15分かけて登ります。
ここで皆様には、
この「スロープカー」の
「景色」を見ていただき、
ぜひ、覚えていてほしいと思います。
あとで意味を説明いたします。
では、発信いたします。
ゆっくり発信します。
5分経過
どんどん進んでいきます。
もちろん
歩いていくことも可能です。
しかし、登山を目的としていない
観光客の方は、このスロープカーを
ご利用されます。
そして
10分ぐらいが経過しました。
すると
こんな感じの景色になってきます。
この景色を覚えていてください。
地元の人に聞きますと
山で遭難する人も
いらっしゃるとのことでした。
それぐらい深い森。
やがて
下のほうに何かが見えてきました。
何か?と思いましたら、
これが
「修験者」が住んでいた建物の跡。
鎌倉時代になると、
49の修行窟が整備され、年中行事も整い、
英彦山修験道が興隆したことが
「彦山流記」に記されています。
また、今熊野窟には嘉禎(かてい)3年
(1237)年に造営された磨崖仏や
梵字ヶ岩があり、
信仰の深さがしのばれます。
さらに。元弘3年(1333)年には
後伏見天皇第六皇子
「助有法親王」が彦山座主に迎えられ、
山伏の修験組織や教えも整って、
九州一円から
信仰を集めるようになったそうです。
ここに山伏が住んでいたのか・・・
鳥肌が立ちました。
さらにスロープカーは走ります。
戦国時代には信仰の山であった
この英彦山も、
大友宗麟により永禄11年(1568)年、
天正9年(1581)年の2回の武力行使を受け、
多くの堂宇、文物を焼失してしまいました。
また、豊前領主の毛利勝信からも干渉を受け、
天正15年(1587)年、
豊臣秀吉の九州平定のおりには、
七里四方に及ぶ神領のすべてを没収され、
英彦山は壊滅状態になります。
この場所で
多くの修験者が生活していた・・
その中には多くの刀鍛冶も
いたと考えられます。
ちなみに
英彦山には「良西」という刀鍛冶が
いたと言われており、修験者として修行し、
文暦頃(1234)年に
筑前博多の光明山善導寺の門徒となって、
鎮西聖光房弁長上人(善導寺開祖)より
西の字を得て、「良西」と称したと言われ、
この人が「左文字」の祖とも
言われております。
さて、いよいよ上に到着しました。
そこで私達を待っていたのは、
やはり修験者に関係するものでした。
スロープカーから降り、
外に出て階段を歩くことにしました。
実は
先程、スロープカーからの景色を
覚えていただきたいと書きましたが、
それは
今から見ていただくもののために
覚えていただきたかったのです。
ちなみに
これが先程の景色です。
スロープカーで
15分かけて登った
深い深い山の奥。
そこを階段で下から登ったら、
かなりの労力です。
もし登ってきたとしたら
この道。
そこを
ゆっくり上がってみましょう。
すると
そこには
信じられない規模の
国指定重要文化財がありました。
写真だと
迫力が伝わらないかもしれませんが、
その大きさ
実物を見たら驚きます。
それが
「英彦山神宮奉幣殿」。
なぜ?
こんな深い山の奥に
こんな最大級の
「神宮奉幣殿」を建てる必要があったのか?
建てたのは
この人
細川忠興公です。
建てたというか、再建したのです。
慶長5年(1600)年の関ヶ原の戦後、
豊前領主となった細川忠興公は
1200石の知行を寄進して、
英彦山の復興に努め、元和2年(1616)年には
講堂を再建しました。
また、他にも筑前の黒田、
肥前の鍋島も英彦山を深く崇拝し、
鍋島勝茂は、寛永14年(1637)年に
銅の鳥居を寄進し、享保14年(1729)年
霊元法皇よりこの鳥居にかける額をいただき、
「英彦山」と仰ぎ出されたと言います。
英彦山神宮にあったのは
「足利」の二引きのライン。
肥後金工にも同じような
二引きラインのデザインがあります。
冒頭に説明した「世阿弥」も
足利義満との縁が深い芸術家、
全国的にも有名な「上野焼」という
細川忠興公が指導した陶芸も
この英彦山の麓にあり、
ここには「足利尊氏」ゆかりの寺があります。
千利休も足利義政・東山文化からの流れ
英彦山と足利家
そして「細川忠興公」の「英彦山再建」という
キーワードが浮かびあがりました。
さきほどの景色を
覚えていただきたかったのは
こんな深い山奥に
これだけの建築物を再建する
よほどの理由がないと行動しないでしょう。
当時、莫大な予算がかかったと思われます。
しかし、それでも再建した理由があった
と思います。
実際のところは
なぜ?
こんな場所に
これだけの規模のものを作ったのか?
謎ですが、
太宰府・宝満山の「金剛界」に対して
英彦山が「胎蔵界」とされていることに
関係あると思いました。
細川忠興公が
太宰府・宝満山にいた
「金剛兵衛盛高」という山伏出身の
刀鍛冶を八代に招いたのも
この修験者・密教・山岳信仰・足利の文化
と何らかの縁があると感じました。
昭和44年に発行された毎日新聞社の
「天狗の末裔たち」という本によりますと
密教には金剛界と胎蔵界という
二つの思想があるそうです。
仏さまが組み合わせた2本の手先を見ると
大日如来像の組み手には
2つの相があり、
両手で丸く輪を作る
「法界定印(じょういん)」と、
もうひとつは
左手の人差ゆびを右手でにぎりしめた
「智拳印(ちけんいん)」がある。
法界定印は胎蔵界、つまり「女性」の相を示し、
忍者のおまじないのように組み合わせた
智拳印は「男性」の相を現すらしく、
胎蔵界は、生をえたおなかの胎児が
母の体内ですこやかに育っていくように
悲しい宿命をもつ人間が菩提の心に目ざめ、
悟りの境地に導かれていくことを指す思想。
そして修験者は
さらに中国の陰陽説にも
きわめて強い影響を受け、
明と暗、昼と夜、天と地、寒と暑、
男と女のように宇宙万般の現象や
事物を二次元で説明しました。
また陰陽説ばかりではなく、
縄文時代の土偶もしかり、
土偶はすべて女性であり、
古代の支配者、卑弥呼なども
すべて女性崇拝が表面立ち
「胎蔵界」というキーワードに
つながってくると言います。
山伏は日本固有の神と密教と
さらに陰陽説など諸々の信仰を受け継ぎ、
ミックスされていった。
そんな修験者「山伏」は
自然界を母なる「胎蔵」とみたて、
厳しい修行した洞窟を「胎蔵界」とした。
朝日と
月夜。
阿(あ)は生まれた時に、口を開いて最初に出す音(生)、
吽(うん)は口を閉じて出す最後の音(死)であり、
それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉を
狛犬が叫ぶ。
鬼の口も
阿(あ)と吽(うん)。
陰陽説とつながります。
その鬼を前に向かって
命をかけて芸術を作ろうとする男。
「刀鍛冶」が
男性しかなれなかった理由も
「女性崇拝」と「胎蔵界」という
キーワードが関係すると言います。
高い山から美しい水が流れ
下に住む農業を営み米を栽培する
人間たちにとっては
「英彦山」は自然の恵みを与えてくれる「母」。
偉大な母としての山だったと考えられます。
武士の時代よりも遥か昔、
古代より
英彦山が日本人にとって
大切な山とされていたことがわかりました。
その中で
修験者や武士も自分達の文化を
作っていったのでした。
私達が今、見ている「日本刀」も
そんな時代の流れの中で生まれたのか・・
と思うと感動します。
それと同時に
日本人が古代から
様々な文化を吸収しながら
「日本刀」という世界に唯一の
芸術を生み出したことを誇りに思います。
今回は英彦山と修験者を旅しながら
また武士の芸術を深く学びました。
長い文章を
最後まで読んでいただいた皆様、
そしてメッセージをいただいた皆様に
感謝いたします。
日本の文化は本当に素晴らしいですね。
今後も宜しくお願いいたします。
英彦山の文化を未来につなげる
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