五郎入道・正宗を訪ねて(完結編)

 

 

むかしむかし

 

正宗(まさむね)の刀と

村正(むらまさ)の刀を

 

川の流れに

 

刃(やいば)を

「上流に向けて」立てて置いた。

 

流れて来た「木の葉」が、村正の刀にあたると、

一瞬にして斬れて「二枚」になり流れたが、

 

正宗の刀は、「木の葉」が刀を避け、

刃(やいば)に触れることなく流れ去った。

 

 

それを見た村正が、

心中ひそかに得意になっていると、

 

正宗が言った。

 

「刀は切れるだけが 能ではない。

悪を斬らずに、

これを遠ざけるのが名刀なり」と。

 

 

正宗と村正。

二人は同時代ではないので

完全な作り話ですが、

 

正宗という偉大なる「刀工」だからこそ

「斬る前に遠ざける刀」という伝説を

生んだのです。

 

そんな正宗を生んだ「相模」

「鎌倉」に来ています。

 

 

 

ここは「鶴岡八幡宮」。

 

鳥居に「白い鳩」だけが集まって不思議な光景。

 

ゆっくりと歩いて進んでみましょう。

 

 

見えてきたのは、「旗上弁天社」。

 

 

治承四年(1180年)8月

源頼朝(みなもとのよりとも)は、

伊豆国に源氏再興の旗を上げ、

 

石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、

10月の鎌倉に移るや

直ちに「鶴岡八幡宮」を創建し、居館を定めて

平家討伐の本拠地としました。

 

 

頼朝の夫人である政子は、

平家滅亡の悲願に止み難く、

寿永元年(1182年)、

大庭景義に命じ境内の東西に池を掘らしめ、

 

東の池(源氏池)には三島を配し、

三は産なりと祝い

西の池(平家池)には四島を造り、

四は死なりと

平家滅亡を祈りました。

 

 

この池が源平池と呼ばれ、東の池の中の島に

「弁財天社」を祀ったのがここなのです。

 

そして、

 

そこを、さらに歩くと

静御前が舞ったとされる「舞殿」が見えてきました。

 

 

この日は休日、

「鶴岡八幡宮」は観光客で溢れていました。

さすが、鎌倉で一番有名な名所ですね。

 

 

ここまで来たら、

やっぱり「あの名所」も見たい!

 

と言うわけで、

 

どんどん進んでいきます。

 

 

ちなみに

皆さんは、

 

この大仏様の

 

 

中を見たことありますか?

 

修学旅行などで見た!という人も

いらっしゃるんじゃないでしょうか?

 

 

それが

 

これです。

 

 

上の黒い部分が頭の部分です。

ちなみに

中に入るのに30分ぐらい並びました。

 

さて、

 

鎌倉の観光地は、このぐらいにして、

本題である「五郎入道・正宗」に戻りましょう。

 

 

正宗。

 

正宗の刀の多くには「銘」、

いわゆる「自分の名前」をサインしていません。

 

その理由について

室町時代の古文書には、こう書かれています。

 

 

自信があるので

あえて銘を打たなかったのです。

 

そして、

時代が過ぎ、安土桃山時代になると

豊臣秀吉に仕えた刀剣鑑定家

「本阿弥光徳」が高く評価、

 

これを受けて、秀吉が報償として

「正宗」の刀を与えたため、

諸大名の憧れの的となりました。

 

 

そして江戸時代、八代将軍「吉宗」は、

古今の刀剣を網羅した

「享保名物帳」を編纂させましたが、

 

その中でも名だたる刀工を差し置いて

「正宗」の刀が最も多く、

山城の吉光、

越中の郷義弘(ごうのよしひろ)と共に

「天下三作」と呼ばれました。

 

 

もともと刀は

古くから、武器であると同時に神聖なものでした。

 

それは、「三種の神器」以来の日本の伝統です。

 

聖なるものは美しく、

刀にも時代の流れととも「実用性と美」が求められました。

 

強さの中にも美しさを求めるという伝統が

正宗の刀を生んだのです。

 

そんな「正宗」が、この鎌倉に住んでいました。

 

少ない資料を元に

歩きながら、鎌倉の町を散策します。

 

地元の人に聞いても「知りません」と言われ、

何回も行ったり、来たり・・・

 

たしかに、700年も前の「正宗」のこと

みんなが知ってるわけではありませんよね(笑)

 

それから、また探し続けました。

 

2時間以上も歩いてきたので足も疲れた・・・

と、その時に、

 

ある狭い道を発見しました。

 

 

 

この「武士道美術館」を見た人達が

迷わないように

この場所を記録しておきます。

 

行けば、ご理解していただけると思いますが、

はっきり言って迷います。

 

入り口に何の目印もありませんので。

 

また、

このような道がたくさんあるので、

分からなくなりました。

 

そして、

ここから入った道の右側に

 

 

ついに

 

 

発見することができました。

 

 

 

正宗が祀ったと言われる

 

「正宗稲荷」。

 

あまりにも小さく、ひっそりとあるので

地元の人でも知らない人もいるかもしれません。

 

しかし、刀剣ファンからすれば、

この場所に「正宗」と「正宗十哲」が

生活し、刀を造っていたと思うと

歴史のロマンを感じます。

 

 

長く歩きましたが、

正宗の故郷に触れ、とても感動しました。

 

実際に目で見て、この場所の雰囲気を感じることで

当時の刀工の気持ちを少しでも感じたいと思います。

 

そして、

 

いよいよ・・・

 

長かった「正宗」を訪ねる旅も

終わろうとしています。

 

最後に向かったのは

 

正宗稲荷から歩いてすぐの場所にあります。

 

 

 

こちら

「正宗孫刀剣鍛冶綱廣」

「正宗工芸美術製作所」さんです。

 

「正宗」後、五代を経て、

廣正の時、小田原北条に仕え、

二代氏綱より一字を賜り「綱廣」と名乗り、

以来、徳川氏の御用鍛冶として栄え、

 

昭和に入ってからは、

 

刀剣はもとより、

刀の切味を加味した刃物及び、

鉄工芸品を制作されているところ。

 

そう、こちらが

 

正宗 「二十四代」なのです。

 

 

直接、お話をお聞きすることができました。

 

なんと

偶然にも、私達と同じ「無双直伝英信流」の大先輩。

範士の先生だったのです。

 

特別に、鍛冶の作業場を見学させていただきました。

 

 

本当に貴重な場所を見せていただきました。

まさか、ここを見せていただけるとは

思っていませんでした。

 

そして、

本当に長かった

「正宗を訪ねる長い旅」が

終わろうとしています。

 

 

正宗は、700年前に没しました。

 

しかし、正宗が残した

「日本が世界に誇る文化」を現在も受け継ぐ

「二十四代」とお会いすることができて、

感動しました。

 

あらためて「武士の美術」は素晴らしいことを

「正宗」に教えてもらったように思います。

 

 

二十四代「山村先生」と

このブログを最後まで読んでいただいた皆様に

心より感謝いたします。

 

どうも、ありがとうございました。

今後もどうぞ宜しくお願いいたします。

 

 

 

五郎入道・正宗を訪ねて(鎌倉その1)はコチラ

 

資料:学研 図説・日本刀大全

wikipedia 徳川吉宗(徳川記念財団蔵)

wikipedia 豊臣秀吉、なんでも鑑定団・TV東京、東京国立博物館所蔵 正宗

 

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