五郎入道・正宗を訪ねて(鎌倉その1)
久しぶりに、神奈川県の「鎌倉」に行ってきました。
日本刀剣史上、
最も有名な刀工「相州 五郎入道 正宗」。
今回は、その「正宗(まさむね)」を訪ねます。
「日本刀」に興味がない人でも、
その名前が知られている「まさむね」。
現存する数は少ないが、そのほとんどが「国宝」、
または、「重要文化財」に指定されています。
慶長(1596〜1615)以前の刀である「古刀」は、
5つの地方が隆盛を極めました。
奈良、京都、岡山、岐阜、神奈川。
今では、このような日本地図ですが、
かつては
大和(やまと/奈良)、
山城(やましろ/京都)、
備前(びぜん/岡山)、
美濃(みの/岐阜)、
と呼ばれ
中でも
相模(さがみ/神奈川)で作られた刀を
「相州(そうしゅう)物」「相州伝」といいます。
「正宗」は、その相州伝を完成し、後世の刀工に
多大なる影響を与えました。
時代は源頼朝(よりとも)の時代。
頼朝が、この相模国鎌倉に幕府を開くと
御家人となった武士が館を構え、
鎌倉は武家政治の中心になりました。
そして北条時頼の執権時代(1246〜1263 )以降、
山城から粟田口國綱(あわたぐちくにつな)が、
備前から福岡一文字派の助真(すけざね)、
備前三郎國宗(くにむね)が鎌倉に移住してきます。
現存するわが国最古の刀剣書。
神代より鎌倉末期までの刀工の系図や、
当代の刀工などについて記された「観智院本銘尽」。
東寺塔頭の一つ、観智院が旧蔵していたことから
「観智院本銘尽」と呼ばれるこの本の中に
ある重要な人物が登場します。
名前は「新藤後國光(しんとうごくにみつ)」
相州鍛冶の創始者と言われています。
その「新藤後國光(しんとうごくにみつ)」の
流れを組むものとして「正宗」という二文字が存在します。
同じく、國光の流れを組む行光の子供とか
行光の弟でのちに養子となったとする説もあり、
また、新藤後國光の子とする説もありますが、実際は謎に包まれています。
正宗の名刀。
「強さ」と「しなやかさ」を秘めた鋼の美しさ。
それは、比類なき名工の弛まなき努力と同時に
時代からの要請でもありました。
正宗の生きた時代は、まさに戦乱の世でした。
鎌倉幕府創設よりおよそ100年後、
日本に大きな事件が起こります。
それが
「元寇」です。
この当時、大陸を支配していたモンゴル帝国(元)によって
二度に亘り行われた蒙古襲来。
昨年、博多の「元寇防塁跡」に行ってきました。
この防塁は、かなり長い距離作られ、
当時の武士達が、蒙古軍を恐れた様子を今に残しています。
実際に、この「襲来」は幕府を震撼させました。
そして戦乱が武器の需要をうみ、
より強く、より鋭い刀が大量に求められるようになりました。
元寇を機会に幕府の屋台骨は急速に揺らいでいき、
やがて50年後に鎌倉幕府は崩壊。
南北朝動乱の時代が訪れます。
そんな長引く戦乱の時代に
刀剣は鍛えられていくのでした。
そんな時代に、
のちに国宝となる芸術を作った「正宗」。
彼がどんな場所に住み、
どんな想いで「日本刀」を作っていたのか?
私達と一緒に
あなたも歴史のロマンを感じながら、
「相州 五郎入道 正宗」の世界を旅してみませんか?
次回は、
彼が刀剣を育んだ「鎌倉」の魅力に迫ります。
資料:wikipedia 建長寺所蔵の北条時頼像
wikipedia 絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)
学研・図説.日本刀大全 名刀・拵・刀装具総覧
国宝 指定名称:刀 無銘正宗(名物観世正宗)、石田正宗
東京国立博物館
国立国会図書館貴重書展「銘尽(めいづくし)」
文永の役の鳥飼潟の戦い「蒙古襲来絵詞」
なんでも鑑定団(TV東京)TV 無双なり冴えの景色(正宗の名刀)
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こんにちわ 平四郎吉政と申します。いつも楽しく拝見させていただいております。
今後とも勉強させていただきたく宜しくお願い申し上げます。
平四郎吉政様
いつもありがとうございます。
こちらこそ、どうぞ宜しくお願いいたします。
太田光柾