古今和歌集を想う
和歌(やまとうた)は、
人の心を種(たね)として
万(よろず)の言の葉とぞ
なれりける。
世の中にある人、
事・業(わざ)しげきものなれば、
心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、
言ひいだせるなり。
花に鳴く鶯(うぐいす)、
水に住むかはずの声を聞けば、
生きとし生けるもの、
いづれか歌をよまざりける(歌をよまない生き物はいない)。
力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女のなかをもやはらげ、
猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも
なぐさむるは、歌なり。
こんな言葉から始まる「古今和歌集」。
この世に
生きとし生けるもの、
歌をよまない生き物はいない。
鶯(うぐいす)や
水に住むかはずの鳴く声を
「歌」と表現した感性が、たまらなく好きです。
さらに、古今和歌集の表現には
一つの歌の中に「二重の意味」があるのも
面白いところ。
例えば、
「あらたまの年の終わりになるごとに
雪もわが身もふりまさりつつ」 在原元方(ありはらもとかた)
意味は、
「今年もまた暮れて行く。
でも、年の終わりになるごとに
雪もますます降るが、
わが身もそれと同様に古さが増してくる」
この場合、
「降り」と「古り」という2つの意味があります。
他には
「風吹けば浪うつ岸の松なれや、
ねにあらはれて泣きぬべらなり」 読み人しらず
意味は
風が吹くと浪が打ち寄せる岸の松が
根をあらわにしているように、
人目もはばからず泣いてしまいそうだ
この場合、「ね」で「根」と「音」という
2つの意味を持たせています。
1000年以上も前に、
こんな芸術があるなんて。
最後に
秋になってきたので
古今和歌集 秋の歌をひとつ。
「我のみやあはれと思はん きりぎりす
鳴く夕影の 大和撫子(やまとなでしこ)」 素性法師
意味:私だけがいとおしいと思うのだろうか、
コオロギの鳴く夕影に咲く
ナデシコの花を。
こんなテクノロジーだらけの現代に
私だけがいとおしく思うのだろうか、
古今和歌集を。
なんて思うぐらい
時代は変わりましたが
日本の美を受け継ぎたい。そんな秋の夜です。
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