肥後金工の源流を訪ねて(その3)
細川三斎(忠興)は、豊後の国より、
新しい任地である八代(やつしろ)に赴任するに際して
肥後金工師
「平田彦三(ひらたひこぞう)」
その弟子の「西垣勘四郎(にしがきかんしろう)」および
彦三の甥の「志水仁兵衛(しみずじんべい)」という
三人のスーパースターを連れて来た。
ここに加藤家の時代から熊本にいた
鉄砲細工の「林又七(はやしまたひち)」の四流派が
互いに競うようにして肥後金工の芸術を作った。
八代・袋町の円覚寺。
この裏の東角に
彦三と志水仁兵衛が最初に住んだと言われる。
平田彦三こそが肥後金工の第一人者であり、
文化の基盤を作ったと言っていい。
平田彦三、二代目が住んでいたと思われる場所。
今では中華料理店になっていたので
店の中に入らせていただいた。
こちらの店主に「平田彦三」のことを聞いたが
ご存知でなかった。
しかし、説明すると興味を持っていただけたので
とても嬉しかった。
この場所で日本一と言われた肥後金工の世界を
作ったと思うと本当に鳥肌が立つ。
彦三がここで暮らしていた・・・
八代の古地図によると、当時の袋町は狭い小さな町で
現在の十分の一ぐらいしかなく、
彦三は、現在の円覚寺の裏当たり
390坪ほどの屋敷を拝領していたと思われ、
そこから現在の中華料理店の場所へ移ったという。
写真は現在の袋町。
この道を肥後金工師達が歩いていたのか・・・
想像してみてほしい。
中華料理店の手前にあるこの場所に
西垣初代が住んでいたと伝えられる。
あの名作達を西垣がここで作ったのかと考えると
また鳥肌が立つ。
彼らは八代で生まれ育ったわけではなく、
日本のあちこちを細川三斎と共に移動してきた。
時代は、大きな流れで見ると
利休や織部、長谷川等伯、海北友松、
岩佐又兵衛、埋忠明寿などが芸術家として有名だったので
ひょっとすると肥後金工師の彼らも
三斎を通じてその芸術を見たかもしれない。
と言うより現在、永青文庫に残っている
細川の芸術品を見ても資料には恵まれていたので、
肥後金工師は目が肥えていたはず。
プロデューサーが三斎なのだから当然かもしれない。
西垣、平田が住んだ場所から少し歩くと
ビルが見えてきた。
近づいてみるとそこには「志水ビル」と書いてある。
かつて「志水甚五」はここに住んでいた。
この場所で独特のデッサンと
魅力溢れる色の肥後金工を制作したと思うと
この八代・袋町は肥後金工の聖地と言える。
明治維新以降、刀が不必要となり、
この文化は消えていった。
あらためて
次の世代に
肥後金工の文化を伝えようと思った。
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私の母(80歳)の実家は熊本県八代市で、母の旧姓は西垣と言います。母の実家は分家なので本家の詳しい住所は母に聞いてみないと分かりませんが(八代市内)、母の兄(故人)が若い頃に西垣のルーツを知りたがっていました。八代市で西垣という名前が少ない事から昔にどこかから来た(地元の土着民でないという意味)のだろうと言っていたそうです。祖父はお寺の世話を本家に頼まれよくしていたそうです。
渡邉様
メールありがとうございます。驚きました。
とても嬉しいです。
肥後金工の歴史にとって、いや
日本の刀装具の歴史上でも「西垣」はスーパースターです。
私が尊敬する伊藤満先生が書かれた
肥後金工師・西垣の本に詳しい歴史や
作品もまとめてあります。
http://www.higokinko.jp/n_01.html
肥後金工で検索すれば出てくると思います。
肥後金工には謎が多く、解っていないことも
まだまだありますので、
また、いろいろと教えてください。
どうぞ宜しくお願いいたします。
太田光柾