千利休屋敷跡(大阪・堺)

「宿院(しゅくいん)」

この地名を見て「千利休」を思い出した方・・・

 

それは間違いなく「利休ファン」か、「歴史マニア」

もしくは、地元に住んでる方じゃないでしょうか。

 

ここは

大阪市の南約12キロメートルに位置する

政令指定都市「堺」です。

 

その堺にある「宿院」という場所は

利休居士が住んでいた場所です。

 

今では普通のどこにでもある街ですが

戦国時代の「堺」は普通じゃありませんでした。

もし利休が、堺に生まれず、京都や奈良の茶人であったなら

どんなに優秀でも信長や秀吉に任用されることはなかったと

言われています。

 

それぐらい戦国時代の「堺」は経済力を持ち、

文化の発信地でした。

 

権力者は「堺」を攻略することが天下統一への近道だったのです。

そんな堺に生まれた利休は、

偶然にも茶人として有名だった

北向道陳(きたむきどうちん)や

武野紹鴎(たけのじょうおう)の近くに住んでいました。

 

そんな一流の文化人との出会いが

利休の人生を大きく変えてしまいます。

 

彼らがこの場所を歩いていたのかなと思うと

不思議な感覚です。

この横断歩道とか車とか想像できなかったでしょうね。

 

「宿院」のバス停から少し歩くと看板が見えます。

 

おそらく行ったことがある人はわかるでしょうが

あまりにも普通の道路で

「侘び寂び」とは程遠い世界・・・

 

でもこの道を利休は歩いていたんです。

当時はどんな景色だったのでしょうか?

ちなみに

私がここに来るのは今年で5回目になります。

私こそ「利休大ファン」で、「歴史マニア」ですよね(笑)

今年は堺文化財特別公開でキャンペーンを行っていましたので

イベントの案内を見かけました。

 

そんな道を歩いていると・・・

こんなビルとビルの間に千利休屋敷跡が見えてきます。

今は屋敷はなく井戸だけが残されています。

 

表に看板があり、何か書いてあります。

内容を解説します。

椿井来由記

この地は、江戸後期から明治中期までこの場所で

酒造業を営んでいた加賀田太郎兵衛が居住していた場所です。

 

そして、かつては千利休の居宅や侘た庵のあった場所でもあります。

「椿の井」という利休が産湯を使ったという井戸があり

ここに加賀田翁が居士を偲んで利休好みの茶室を建て

大徳寺の大綱和尚を迎えて茶室開きをしたとき

和尚は昔を懐かしむ心の茶室の銘として「懐旧」と名付け

利休居士にちなむ茶蹟としました。

この茶室は昭和の戦災も免れて、今京都の地にありますが、

井戸のみここに残され、いまなお清水が湧き出て

利休居士を偲ばせています。

このたび、桃山時代、千利休により再建された

大徳寺山門(金毛閣)の昭和大修理の際に出た

古材を用いて井戸の屋形を建て、

そこに大綱和尚の遺墨「懐旧」を刻んだ扁額を掲げて、

ここにその遺芳を伝えることにしました。(椿井来由記より)

本日は千利休屋敷跡をご紹介しました。

 

利休居士を知っていただくことで

世界中の人達に「茶道」の素晴らしさや

日本の素晴らしさを知っていただければ幸いです。

 

また来年もここに来ようと思いました。

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