肥後金工と古田織部
肥後金工が我が国の刀装史上、極めて重要な存在になった背景には
細川三斎(細川忠興)の古田織部に対するコンプレックスがあったのではないか?と
私は考えています。
そんな思いから織部シリーズ
「織部焼・梅図と林・梅の鐔図」を描きました。
この絵のテーマは三斎と古田織部の友情であり、
また同じ時代を生きた2人のライバルが産み出した
芸術のコラボレーションです。
この絵の背景は「梅模様の織部焼き」。
その上に三斎がプロデュースし、林(はやし)家に作らせた
「梅デザインの肥後鐔」を構成しています。
同じ戦国時代を激しく生きた2人の芸術家。
数多い利休の弟子の中で、この2人だけが利休を淀川で見送った。
そんな命懸けで「茶の湯」を追い求めた2人だからこそ
お互いに利休から学んだ芸術に誇りと自信を持っていたのではないか?
私はそう考えました。
三斎が息子の忠利との手紙の中で
茶器に関する目利きに対して実に細かいことまで注文したり、
利休の茶杓を真似して作った偽物を指摘している文章があります。
それは利休の茶の湯の正当な弟子としての、
三斎の絶対的な自信があるからできる批評です。
真面目で気性の激しい性格だった三斎は
利休を心から尊敬しただろうし、
茶の湯への情熱は他の誰にも負けないという自信があったはずです。
しかし、
茶道の世界や世情での評価はどうだったか?と言うと
「茶道四祖伝書」(思文閣)のうちの「利休居士伝書」は
三斎と織部を次のように評価しています。
「数寄(茶の湯)というのは(師と)違った工夫をしなければならない。
だから織部の(個性の強い、革新的な)茶の湯の作意・創意は大変優れている
一方、三斎の茶は(利休の)作法から一歩も出ず、寸分違わない。
そこで結局、その名は世間によく知れわたることもなかったのである。」と・・・
しかし、私は細川三斎(細川忠興)の武士としての生き方に注目しました。
彼はあくまでも武士であることにこだわっています。
茶人ではなくサムライとして振る舞ったエピソードが数多く残されています。
また、武将としては織部よりも大きな大名で
政治の中での立場も違います。
だからこそ織部のように茶道筆頭として茶の湯で生きることはできなかったし、
作意・創意を行うことができなかったのではないか?
しかし、同じ利休の茶の湯を極めたのにもかかわらず、
織部が時代を代表する茶人として評価されることに対してのフラストレーションが
結果的に「肥後金工」「肥後鐔」という刀装具表現の中で爆発したのではないか?
と私は考えました。
だからこそ
「肥後鐔」には茶器に見られる不整形の美とも云うべきものが
生かされているのではないか?
細川護貞公も「肥後の金工」という本の中で
林又七の透し彫りは、決してプレスで抜いた様に垂直ではなく、部分的に傾斜しており、
表裏の透しに微妙なズレがあり、それが何とも云えぬ味をもたらしている。
このような技法は、故意が目立ってはイヤ味になると説明し、
これらは茶道の焼物などに共通した美的感覚であり、肥後鐔独特のものと云えよう。
と解説しています。
今となっては本当のことは謎ですが、
千利休という偉大なる師匠から受け継いだ美学を
三斎と織部がそれぞれに表現していることが面白いですし、
それを組見合わせることで、また新しい表現ができるのも発見でした。
今後も織部シリーズを制作しようと思っています。
参考資料(第3回 熊本の美術 肥後の金工)
淡交社 細川三斎 茶の湯の世界 矢部誠一郎著
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