妙見祭・亀蛇(きだ)(がめ)

 

 

江戸時代、日本一と言われた肥後金工。

それを作った「肥後金工師」達が守り神としたもの。

 

それがこの 亀蛇(きだ)(がめ)。

 

玄武(げんぶ、拼音: xuánwŭショワンウー)

とも言われる中国の神。
北方を守護する。

脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれ、
奈良県明日香村のキトラ古墳の石室内の北側壁にも

描かれている。

この鐔を作った志水甚吾は

肥後金工を代表するアーティスト。
ゴッホのような独特のタッチで描くデザインは、

鑑定家「佐藤寒山」がファンだったほど

専門家の中でも人気がある。

そんな志水甚吾が亀蛇の鐔を作った理由は
彼が住んでいた

熊本県八代(やつしろ)市に古くからある
妙見宮(八代神社)の守り神が
この亀蛇だからなのである。

 

 

平成22年11月22日〜23日
熊本県八代市において九州三大祭「妙見祭」が開催。

 

 

妙見祭の歴史は古く、

中世の八代(やつしろ)を支配した
相良氏が神仏への信仰が篤く鳥居を寄進し

祭礼を行っていた記録が残っている。

その後、妙見宮は一時衰退する。

しかし、その妙見宮を盛り立てたのが細川三斎公なのである。

江戸時代、細川家、松井家が祭りを盛立て、
八代城下町の町衆などが獅子舞や豪華な笠鉾などを

競って奉納するようになり
この平成になっても続いている。

 

朝早く塩屋八幡宮にて神幸行列。
続々と祭りに参加する人達が集まる。

美しい馬。

神秘的な雰囲気を持っている。

 

細川の家紋を背中に入れた若衆が続々と集まる。
細川三斎公もこのような迫力のある祭りを楽しんだのだろうか?
そう考えただけでも武士の時代にタイムスリップする。

 

 

鉄砲(てっぽう)隊
絵巻物に従い40挺の鉄砲を肩に担ぐ

鉄砲隊が平成2年に復元されている。
関ヶ原で最前線で闘った細川三斎だからこそ、
戦(いくさ)に対する武士としての想いが八代に受け継がれた。

 

 

亀蛇の登場。
その昔妙見の神様がはるか中国から

この亀蛇に乗って海を渡り、

現在の竹原神社あたりの「竹原の津」に

上陸されたという伝説がある。

昔から八代の人々に亀蛇が愛されていたのだろう。

八代に住んだ肥後金工のスーパースター達が
亀蛇をモチーフに作品を作った理由がわかる。

 

花奴(はなやっこ)
花奴は、宝暦2年(1752)に松江村の

虎右衛門によって創設されたと伝えられている。

 

 

塩屋八幡宮の前で亀蛇が奉納する。
その大きさと迫力に感動する。

 

亀蛇にある細川家の紋「九曜の紋」。

最近では子供の亀蛇もあり、子供達が担当している。

 

獅子(しし)

獅子舞は、元禄時代の八代城下の豪商・井桜屋勘七が
妙見祭に取り入れたのが始まりと伝えられている。

井桜屋勘七は商いのために行った長崎で
長崎諏訪神社の「おくんち祭」の羅漢獅子舞を大変気に入り、
このすばらしい踊りを妙見祭に取り入れたいと思いつづけていた。

その井桜屋勘七は、長崎沖合いで激しい嵐に出会い、
異国近くまで吹き流され死にかけた時、
日頃信心している妙見の神様を必死に伏し拝んだ。

すると、不思議にも目の前に神が現れ、
いつも信心するご褒美にと獅子舞の作法を勘七に伝授したという。

その後、嵐はすっかりおさまり勘七は八代に帰ることができ、
元禄4年(1691)に祭礼に奉納したと言われる。

 

続々と人々が集まり
いよいよ行列が動き出す。
本町アーケードを歩きながら妙見宮(八代神社)に向かう。

 

亀蛇の舞。
大きな亀蛇が激しく踊る。
その迫力に見物者も拍手で喜ぶ。

 

 

八代ロイヤルホテルさんでは
祭を見学する人たちに無料でお茶のサービスをされていた。
スタッフの皆様の優しさに感謝。
ありがとうございます。
http://www.yroyal.com/

 

 

行列は続き
ハーモニーホールから八代駅に行き
八代神社へ

 

八代神社も大勢の人達が集まる。

 

 

参拝する人達の大行列。

 

笠鉾 迦陵頻伽(かりょうびんが)
塩屋町。
この羽根を大きく広げた迦陵頻伽は、極楽にいる大変美しい鳥。
この世が極楽さながらの世界でありたいという願いを表している。

 

笠鉾 松(まつ)
平河原町。
松は「相生の松」とも呼ばれ、夫婦ともに白髪が生えるまで長く、
そして仲むつまじく暮らせることを願う。

笠鉾 恵比須(えびす)
徳渕町と渕原町。
福の神の恵比寿が、釣り上げた大きな鯛の上に乗っている姿は、
豊富な海の幸と幸福を表し、
港として栄えた徳渕町の歴史を物語っている。

笠鉾 蜜柑(みかん)
中島町。
蜜柑は一つ食べると千年も寿命が延びるという

めでたい食べ物とされ、
八代蜜柑は江戸時代に細川家から宮中や将軍家へ、

正月の献上品となっていた。

笠鉾 猩々(しょうじょう)
紺屋町。
猩々は中国揚子江に住む想像上の動物で、

どんなに汲んでも尽きることがない酒壷をもち、
親孝行をする者に褒美としてその酒壷を与えた。

笠鉾 西王母(せいおうぼ)
通町。
西王母は古代中国の神話の中で

崑崙山という西の果ての山に住み、
不老不死の薬を持っているとされている仙人で、

人々の不老長寿を表す。

笠鉾 蘇鉄(そてつ)
二ノ町。
蘇鉄は不老長寿と火よけ、

そして起死回生を祝う霊木とされ、
優れた人物があらわれ、

土地や家門が繁栄する証として飾られている。

笠鉾 本蝶蕪(ほんちょうかぶ)
本町。
笠鉾の上に「本」という文字、

「あげは蝶」そして「蕪」が飾られ、
本町の商売繁盛と子孫の繁栄などを表している。

笠鉾 菊慈童(きくじどう)
菊慈童とは古代中国の皇帝のもとに仕えた少年で、
ある山奥で菊の葉したたる水を飲んで仙人となり、
七百歳になっても子どものように若々しかったことを祝ったもの。

 

細川三斎公が愛した八代。
そこから誕生した肥後金工師の文化が
この八代には今でも残っている。

武士の中で最高のブランドだった肥後鐔の存在を
もはや八代に住んでいる人達も知らなくなっている時代だが

妙見祭や亀蛇などを通じて知ってもらえば幸いだし、
この素晴らしい文化を次の世代に繋げていきたいと心から願う。

皆様も来年の妙見祭に行かれてみてはいかがでしょうか?
静と動が織りなす神幸行列と
勇壮な演武が素晴らしい祭です。

 

 

 

※資料:肥後金工の源流を求めて
妙見宮公式サイト

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