宮の陣(将軍梅)

 

福岡県・久留米市には

子供の頃から

何度も遊びに行っております。

 

皆様がよくご存知な

あの「豚骨ラーメン」も

久留米ラーメンが元祖と言われ、

 

また、

最近では焼鳥屋さんの数

日本一の町として

美味しい焼鳥イベントが

開催されています。

 

 

そんな感じで個人的に

「久留米」と言えば

「食」のイメージが強く

 

「久留米の歴史」については

ほとんど興味を持ったこともない

そんな状態でした。

 

しかし・・・

 

実は

この町で

 

あの天下分け目の

「関ヶ原の戦い」に匹敵するような

大合戦が行われていたのです。

 

 

時代は

延元元年(1336年)まで

さかのぼります。

後醍醐天皇は征西大将軍として

九州に当時8歳の皇子

懐良親王を派遣し、

 

彼を奉じた菊池武光は、

高良山・毘沙門岳に城を築いて

征西府としました。

 

足利尊氏が幕府の内訌であった

観応の擾乱を治め、

八幡の戦いを制し、

 

正平9年・文和3年(1354年)に

南朝の支柱であった北畠親房が没すると、

南朝側で北朝に対抗しうる武力勢力は、

九州の懐良親王と菊池一族のみとなります。

 

 

延文4年・正平14年7月、

懐良親王、菊池武光、赤星武貫、

宇都宮貞久、草野永幸、大野光隆ら

南朝勢約4万は

この筑後川の北岸に陣を張り、

大宰府を本拠とする

北朝・足利勢の少弐頼尚、

少弐直資の父子、

 

大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙し、

両軍合わせて約10万の大軍が戦いました。

 

えっ・・・

 

10万人?

この筑後川で戦った?

 

おいおい

ラーメン食べてる場合ではない・・

 

そんな大きな戦が

この場所であったとは。

 

想像してください。

10万人が鎧を着て戦っていることを。

 

しかし、よく考えてみると

日本刀の歴史で

筑後川の戦いの存在は知っていました。

 

福岡には「大刀洗」もありますし、

先日の菊池でのイベントでも

聞いたことはありましたが

 

実際

教科書でも素通りしてしまった。

映画やドラマでも見た記憶がない・・

確かに視聴率で考えても

戦国時代や幕末がいいですし

 

鎌倉とか南北朝って

地味なイメージですよね?

 

 

 

でも日本刀では

この時代こそが面白く

博物館で展示してあるのも

美しいものばかり。

 

それにしても驚きました。

数字で見せられると

どれだけ大きな戦いだったの

かわかります。

 

この戦いで足利側の少弐直資は戦死、

 

南朝側の懐良親王や菊池武光も負傷し、

両軍合わせて4,800余人が

討死にしたといわれます。

 

 

この戦いに敗れた足利軍は

大宰府に逃れ、九州はこの後、

幕府が今川了俊を

九州探題として派遣するまでの

13年ほどは南朝の

支配下に入ることとなりました。

 

征西将軍宮懐良親王が

布陣した場所が現在の

福岡県久留米市宮ノ陣です。

 

 

筑後川の合戦の際、

懐良親王はこの地に陣を張り、

念持仏である阿弥陀像を

 

ここに安置され、

手向けに一株の紅梅を

お手植えになり、

百万遍の念仏を唱えられたと言われ

これが

「宮の陣」の地名の由来です。

 

電車で「宮の陣駅」を

何回も通過していたのですが

まさか、このようなエピソードで

「宮の陣」だったとは・・・

知りませんでした。

 

また、ご存知だった皆様も

この場所に来たことが

ありますでしょうか?

 

知っていても、なかなか

訪れる機会は少ないと思います。

 

そう

この場所こそが

「宮」の「陣」なのです。

 

 

星霜をかさね、

親王が手向けた紅梅は老樹となり、

里人の語り草となって

この老紅梅を人々は

「将軍梅」と呼ぶようになりました。

 

3月上旬頃になると

遠い昔の思いを秘めて

美しい紅梅が咲きます。

 

宮の陣神社は、

このような故事に因んで、

高良神社宮司船曳鉄門が主となって、

明治21年に神殿を創建し、

 

後征西将軍宮良成親王

(懐良親王の甥)を祀ったのが

はじまりといわれています。

 

その後、明治44年に

懐良親王の霊が合祀されて

今日に至っています。

 

 

カーナビで探し

宮の陣に行ってみました。

 

思いつきで行動したのです。

 

この梅の花のことは

まったく知りませんでした。

 

時間は夕方

ぎりぎりでしたが

現地に行った時に感動しました。

 

 

満開に咲く「梅」に

出会うことができましたので

 

武士道美術館をご覧の皆様に

ご紹介したいと思います。

 

 

今から656年前

この場所で武士が戦った。

 

懐良親王は、

自らの影武者として

この地で散っていった

 

江田行晴・栗田貞政

そして

勇敢に戦った

五条良氏のことを想い

 

「梅の花が亡くなったものの

御霊を慰めてくれる」という

願いを込めて、

 

この地で息子を亡くしている

栗原貞盛・江田行光に声をかけ

ともに紅梅を植えたといいます。

 

今日、梅があることも知らず

偶然にここに来たのですが

 

歴史を知って

梅の花の瞬間の美しさを

 

武士道美術館を通じて

皆様にご紹介することができ

本当に良かったなと思いました。

 

 

 

見上げれば

もう月が出ています。

 

筑後川に集まった

多くの武士達が

この月を見て何を想っただろうか・・

 

「歴史とは

現在と過去の対話である」と

言われますが

 

本日は

梅の花と対話し

梅の花が多くのことを

語ってくれたような気がしました。

 

ここ「宮の陣」には

歴史ロマンが溢れています。

 

皆様も

ぜひ歴史を学び

この場所に足を運んでみては

いかがでしょうか?

 

日本には今でも

「武士の美意識」が

様々な場所で

受け継がれているのです。

 

 

資料:九州の南朝 新泉社

 

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