小代焼を求めて(全編)

 

以前、上野焼の

高鶴大さんのギャラリーを伺った時に

「上野 高取 八代 小代」という

貴重な本をいただきました。

 

 

今回は、この本に書かれていた

「小代焼(しょうだいやき)」が

 

とても気になり、

そのルーツを探す旅に出かけました。

 

 

 

細川忠興(細川三斎)公の美学を

研究している私にとって

 

肥後金工と同じように

焼物も注目しています。

 

 

 

小代焼は熊本県の北部

 

小岱山麓(荒尾、玉名、南関)で

約400年前から焼き続けられている九州を代表する陶器です。

 

その起源は、細川三斎公の息子であった

忠利に由来されると言われていますが、

 

加藤清正公の時代から存在したと言われ

歴史的にまだ謎の多い場所です。

 

 

清正公も千利休の弟子、

また細川忠興(三斎)公とも交流があり、

 

過去にこのブログでも紹介しましたが

 

京都・大徳寺の

三斎公が創建した高桐院には

 

清正公が三斎公に贈ったと言われる

「つくばい」があります。

 

 

上の写真がその「つくばい」。

 

清正公が朝鮮羅生門の礎石を持ち帰り、

三斎公に贈ったもので

三斎公は熊本と江戸参勤交代に持ち歩き80歳の時、

この高桐院におさめたそうです。

 

まさに清正公が小代焼の職人さんを

熊本(玉名、荒尾)に招いたと言われる時代です。

 

清正、忠興(三斎)、忠利と誰がこの文化を作ったのか?

この謎があるところも小代焼の魅力です。

 

 

いずれにしても利休の美学や

細川から受け継がれた東山文化なども反映され進化したと

私は思っています。

 

 

ここは瀬上窯の跡。

地元で作られた小代焼のパンフレットによると

豊前藩・小倉藩城主の忠利の熊本移封(寛永9年・1632)

にともなって、

 

当時豊前藩上野(阿賀野)で作陶をしていた陶工

牝小路源七(ひんこうじげんひち)と

葛城八左衛門(かつらぎはちざえもん)が

小岱山麓に移り住み窯を開いたことに始まるそうです。

 

 

牝小路源七(ひんこうじげんひち)は、

もと丹後国牝小路の陶工のようです。

 

丹後国とは現在の京都北部ですね。

 

冒頭で紹介した高鶴さんの本によると

牝小路源七は太鼓を打っていたそうで

能などの芸術家とも交流があったとのこと。

 

 

当時、細川は芸術の名門。

 

その細川で修行した牝小路源七(ひんこうじげんひち)が

小代焼に影響を与えたとしたら

全国的にも高い芸術性を持って評価されたと思われます。

 

 

能楽、和歌、茶事はお互いに関連した教養事であったので

利休七哲と言われた細川三斎を募って上野に来て、

 

京都仕込みの茶陶を指導し、

さらにこの小代へ移っていったとしても不思議ではありません。

 

 

小代焼の魅力は素朴で力強い作風。

全国にもファンは多く、茶道家やコレクターの間でも人気です。

 

小代焼は

小岱山特産の小代粘度を原料とし、

古くからの手作業の技術・技法が現在まで継続しています。

 

 

上野焼、高取焼から小代焼へと移りますが

朝鮮民族の自由な心を焼物に託して遺っているのは

唯一、小代焼と言われ、稀有な窯芸形態を見せています。

 

小代焼は日本の茶陶の影響を受けながらも

朝鮮系の創始のにおいを遺した特異な窯です。

後編は古小代焼と現在の小代焼をご紹介いたします。

 

 

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