金剛兵衛・源盛高を訪ねて(その3)

 

 

加茂川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、

山法師、

是ぞ朕が心に随わぬもの・・・

 

これは有名な、「白河法皇」の言葉です。

 

 

 

 

この言葉が意味するように

 

かつて「山法師」には大きな力がありました。

 

昔の僧侶と武力はつきもので、

帯刀が許されたものもあり、武芸の記録もあります。

 

白河法皇が言うところの「山法師」

つまり「山伏」は「山武士」であり、

優秀な「刀鍛冶」も育みました。

 

「金剛兵衛盛高」も

そんな「山伏」と縁のある刀鍛冶。

 

 

さて、

 

ここは

 

福岡県・太宰府の近く

「宝満山」にあります竈門神社(かまどじんじゃ)。

 

やはり九州は歴史が古く

私達が生活している中に

遺跡がゴロゴロしているのですが

 

「邪馬台国」に代表される解明されていない

遺跡などもあって面白い場所。

 

 

この太宰府エリアも歴史が古く

全国から多くの考古学ファンが訪れます。

 

 

それにしても

季節が「梅雨の時期」だからでしょうか、

日本独特の湿気が「神聖な雰囲気」を

さらに高めてくれます。

 

 

 

ちなみに、こちらの「ご祭神」は

 

玉依姫命(たまよりひめのみこと)

応神天皇(おうじんてんのう)

神功皇后(じんぐうこうごう)

 

若い女性を中心に「縁結び(良縁)の神様」と親しまれ、

 

また「厄除け(やくよけ)・方除け(ほうよけ)の神様」と

信仰が厚く、春のお花見や秋の紅葉はもちろん、

宝満山の登山者で一年中にぎわっております。

 

 

 

 

また、この竃神社には

神道夢想流杖道の開祖

夢想権之助勝吉公を祀った神社があり、

 

戴いた資料によりますと

慶長の頃(江戸初期)に

 

夢想権之助勝吉がこの山にこもり、

苦しい修行により「丸木をもって水月を突け」との

御神託を得て、流名「神道夢想流杖道」を

編み出したゆかりの地ということです。

 

とても興味があります。

 

 

さて、

 

「金剛兵衛盛高」の石碑があるという情報を聞き、

やって来たこの場所ですが・・・

 

どこにあるのか?

 

わからない・・・

 

と言うことで神社の方に訪ねることにします。

 

 

 

美しくデザインされた建物。

 

 

中に入ると

近代的で素敵な空間。

グッズもかわいいデザインでした。

 

 

お話を聞くと、

「金剛兵衛盛高」の石碑は

 

今、登ってきた石段の途中

 

「赤の鳥居から入ったところにある」

という情報を聞きましたので、さっそく行ってみます。

 

 

 

 

そう言えば、さっき赤い鳥居があったような・・・

 

考えながら歩いていると

すぐ発見しました。

 

こちらは、竈門神社へ登っていく方向で言うと

左手になります。

 

 

 

緑に赤のコントラストが美しいですね。

 

さらに奥に進んで行きましょう。

 

 

かつて

 

山伏たちが、人間の業を笈(きゅう)に負い、

煩悩の叫びを錫杖(しゃくじょう)に打鳴らして、

 

求め、生き、死んでいった聖地。

 

そんな場所だからこそ

神聖な「日本刀」が誕生したのではないか?

 

そんなことを考えながら歩きました。

 

 

 

まるで「天狗」が出てくるような雰囲気です。

 

 

 

 

そして

 

遠くに・・・

 

 

あまり人に気付かれないような場所に

 

何かが見えます。

 

 

 

 

 

 

この日は、天気も悪く

 

 

暗いので

 

一瞬

木のように見えましたが

 

よく見ると

 

石碑です。

 

しかも何種類かあるようです。

 

 

近づいて

 

驚きました。

 

 

なんと

 

 

これが・・・

 

 

「金剛兵衛盛高」の

 

 

「墓」と言われている

 

 

石碑でした。

 

 

 

 

 

 

一番右

「金剛兵衛盛高」の墓と言われている板碑は

石造物の型式から見て、鎌倉時代後期から

 

南北朝時代のものと言われています。

 

そして、一番左に建っている石碑は

明治29年(1896年)、北海道松前に住む、

金剛兵衛の末裔という方が夢のお告げにより

祖先の墓を探し当てた感激に、その由緒を刻んだ

というものだそうです。(九州国立博物館資料による)

 

さらに

 

石碑のデザインに注目。

 

 

そう

金剛兵衛のシンボルと言われる

 

「卒塔婆」の形です。

 

さらに

 

石碑に何か刻まれています。

 

 

 

 

数百年も経過していますので

 

もう見えなくなっていますが

 

 

書かれているのは

 

 

 

 

梵字

 

 

(カーン)の文字。

 

 

これは

 

「不動明王」をあらわす梵字とのこと。

 

 

 

誰かが大切に伝統を受け継いできたおかげで

こうやって残っているのですね。

 

金剛兵衛の活躍は文献資料にもあるようです。

福岡市博物館の資料によると

 

室町時代中期に著された「尺素往来」という書物には

行平・粟田口・一文字などの

全国の有名な刀工を列挙するなかで

金剛兵衛も掲げられ、

 

「一代聞達(いちだいぶんたつ)の者」

(世間に評判の者)と評されてます。

 

「資料:尺素往来:福岡市博物館資料より」

 

戦国時代、筑後国南部に割拠した

田尻鑑種(たじりあきたね)が家伝の名刀を

息子に譲り渡した目録にも

金剛兵衛が含まれています。

 

「資料:田尻鑑種刀日記:福岡市博物館資料より」

 

金剛兵衛の活動域は

筑前国内から北部九州一帯に広がり、

「肥前国尾崎住源盛次」や

 

久留米、長崎、大分でも活躍しました。

 

 

刀の特徴としては

 

地鉄(じがね)と言われる

(鍛錬の跡を示す鍛え目)は、

板目(木材の板目のような肌合い)が流れ

 

やや柾目(まっすぐに通った木目)が

交じっています。

 

 

 

 

 

神社の西側の民家には

金剛兵衛が鍛冶に使用したと伝えられる井戸も

残されているそうです。

 

 

 

今日は

刀鍛冶の文化に触れ

武士道の美術に感動する一日になりました。

 

 

このように

 

今は

石碑や井戸が残るだけ。

 

数百年前に生きた「金剛兵衛」は

亡くなってしまいましたが、

 

 

今でも

 

彼らの残した「芸術」は

私達の中で生きており、

また、子孫の皆様が現在でも

活躍しておられます。

 

あらためて

日本刀の美しさと日本文化の精神を

多くの人達に

知ってもらいたいと思った一日でした。

 

 

 

資料:九州国立博物館

福岡市博物館 堀本一繁氏 天狗の末裔たち(毎日新聞社)

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2 Comments »

 
  • KBS京都 より:

    九州地方の山伏の刀ということで豊後高田の暗い地金や古月山の渦巻く綾杉肌を想像していたのですが実物は山城伝の来派に趣のにた美麗な地金で
    山伏というより公家が履くような太刀のイメージなので驚きました。

    • ohta より:

      KBS京都様

      コメントありがとうございます。

      写真の短刀は、明治41年生まれの
      第12代 金剛兵衛盛高 靖博先生の作品です。

      平成18年の熊本伝統工芸館での
      刀匠 盛高靖博の世界と肥後透鍔展でも
      展示いたしました。

      ご興味を持っていただき
      嬉しく思います。

      武士道美術館 太田

 

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