黒田官兵衛
黒田 官兵衛を200%楽しむ方法。
黒田官兵衛(のちの如水)、長政父子が筑前に入国してきた時、最初、名島城へ入ろうとしたが、長政だけが入り、官兵衛はしばらく宗湛の家に泊まったと言われている。そんな神屋宗湛とは、いったい何者だったのだろうか?、神屋宗湛は戦国時代から江戸時代前期にかけての博多の豪商。織田信長、豊臣秀吉とも交流のあった日本を代表する豪商である。
神屋宗湛屋敷跡。
明治19年に博多復興三百年を記念して、豊国神社が整備された。
今では博多駅と続く大きな通り。そこから入った場所に宗湛の屋敷跡が残る。
練酒の奈良屋九郎兵衛がいたとされる旧奈良屋番の石碑
国内外との交易により莫大な富を築いた神屋宗湛(1553年〜1635年)は織豊(しょくほう)時代に活躍した代表的な博多商人としてその名を知られている。特に豊臣秀吉から厚遇された宗湛は、天正15年(1587年)の博多復興に際して、この地に広大な屋敷跡と町役免除の特権を与えられた。宗湛はその恩に報いるため、早くから邸内に秀吉の霊を祭った。(※明治19年に博多復興三百年を記念して豊国神社が整備された。)
その後、徳川家康の時代になると冷遇され、彼自身も老齢ということもあって、以後は豪商としての活躍も無く、寛永12年(1635年)に83歳で病死したと言われる。
宗湛以前からすでに神屋氏は豪商としての地位を築いていた。曽祖父の神屋寿貞は石見銀山の本格的開発に携わった人物と言われている。
そんなバックボーンもあってか宗湛は様々な貿易で活躍した。中でも戦国時代の豪商は「武器商人」でもあり、武将の資金援助も行っていた。
とくに秀吉の九州征伐において、宗湛は資金的に援助している。文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵においても後方兵站の補給役を務め、晩年の秀吉の側近として活躍したと言われる。ところが、徳川家康の時代になると冷遇されてしまう。家康に冷遇された理由には、秀吉達や秀吉のブレーンとの繋がりがあったと考えられ、普通の商売人ではない恐ろしさを家康が感じていたのかもしれない。
しかし、彼は日本の文化に大きな貢献している。畿内の諸大名や堺の大商人・津田宗及らと親交を深め、同年、大徳寺にて出家し、宗湛と号し、後世の偽書とも疑われているが、『宗湛日記』という宗湛が秀吉時代に活躍したことをまとめた茶会記などを記録したことで、秀吉政権の内部を知る上では貴重な史書の一つを残した。また博多の町作りには大きな貢献をした文化人でもあった。ぜひ、官兵衛とも親しく交流した神屋宗湛を訪ねてみてはいかがだろうか?
武士道