黒田官兵衛
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三国(百済、新羅、高句麗と加耶諸国)時代、朝鮮半島に兵を出した神功皇后(じんぐうこうごう)が宗像三神をこの名島城に祀ったことが名島神社の起源とされ、その場所に名島城が築城されたという。また元寇の時代にも名島城には防塁が築かれるほど北部九州にとって古代から重要な軍事的基地の役割をしたことが考えられる。
この場所に立つと海からの侵略を見ることができるし、東、西、太宰府方面まで見渡すことができ、危険を察知した場合、すぐに連絡がとれる見張り台のような場所にも見える。多々良(たたら)と言えば製鉄、日本刀と縁がある名前だが、このあたりを多々良浜といい、多々良浜の合戦(建武3年・1336年)には足利尊氏が肥後(現在の熊本)から北上してきた菊池武敏(きくちたけとし)と陣の越で対峙し、10倍もの大軍団だった菊池軍を打ち破り、足利幕府樹立のきっかけになった合戦になったのもこの名島城周辺だった。今でこそ静かな場所だが、当時の多々良浜は商都博多の玄関口に当たり、その権益をめぐって幾多の戦いが行われた。永禄12年(1569)の毛利(周防)と大友(豊後)の戦いもその一つ。多々良浜を挟んで対陣し、約半年間にわたって戦いが行われたという。
今では神社と、その上に見晴らしの良い公園がある名島城跡。
今でも櫓の跡が残る。
「三本の矢」のエピソードをご存知だろうか? 戦国大名、毛利元就(もうりもとなり)の毛利三兄弟の話として有名なのだが、その三男の一人が名島城の城主となった「小早川隆景」。隆景は名島城を築城した後、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592-1598)の時、多くの家臣を率いて朝鮮へ出兵した。その間にも、この名島城は軍事的拠点である肥前名護屋城への補給基地として活躍。そして帰国した隆景の養子として迎えられたのが関ヶ原で有名になった「小早川秀秋」。彼が文禄4年(1597)に新たな城主となる。その後、関ヶ原で勝利に貢献したことから秀秋は備前国岡山に移り、新たに豊前国中津から入国してきたのが黒田長政だった。
このように黒田が入国する前から名島城は軍事拠点として重要な役割だったことが考えられ、おそらく日本の歴史に登場する前から大陸との接点を持った謎多き場所。この場所に立つと福岡の町がよく見えるのがわかる。実際には黒田は名島城では狭いということから現在の福岡城への築城を開始する。その際、名島城から建造物や石垣を解体し運んだといわれ、これを「名島引け」と地元では呼ぶ。ちなみに崇福寺のコーナーでも紹介した唐門は、この名島城から移築されたもので、この他にも福岡城に移築された名島門も存在する。
武士道