安土城より前に九州に「見せる城」?

 

安土城よりも前に

九州に「見せる城」があった?

 

 

そんな西日本新聞の記事(2012年5月18日)を見て

シンポジウムに参加してきました。

 

タイトルは

「戦国・織豊期(しょくほうき)の

九州の城郭・肥前小佐々水軍城などの評価をめぐって」です。

 

 

2012年5月20日(日)

会場は「福岡市立西市民センター」。

 

「山中に眠る謎の城跡に安土城に先駆けた近世城郭の可能性を探る」

というテーマで

とても面白く勉強になるシンポジウムでした。

 

シンポジウムのコーディネーターを務めるのは

丸山雍成 先生(まるやまやすなり)・九大名誉教授。

さらに

西ケ谷恭弘 先生(にしがややすひろ)・日本城郭史学会代表

小佐々学 先生(日本城郭史学会長崎支部長)

伊藤一美 先生(鎌倉考古学研究院理事)

木島孝之 先生(九州大学人間環境学研究院助教)

 

 

織田信長が天正4年(1576年)に

琵琶湖東岸の安土山で

築城を開始した幻の城・安土城よりも以前に

九州に「戦うための城」ではなく、

権力を誇示するための「見せる城」が

あったのではないか?

 

資料を見せていただきながら、

先生達のお話を聞き、

武士の時代にタイムスリップしたような

楽しい時間となりました。

 

 

まずは、西日本新聞の記事からです。※以下・西日本新聞記事より

 

長崎県西彼杵(そのぎ)半島の領主だった

小佐々氏(こざさし)は、戦国時代から江戸初頭まで

付近の制海権を支配した小佐々水軍を

擁していたことで知られる。

 

同県西海市に点在するこの小佐々水軍の城跡が

近世城郭研究者に注目されている。

 

 

近世城郭は織田信長によって天正4年(1576年)に

築城が開始された安土城を始原とし、

秀吉の全国平定の過程で

広がったとされてきたが、小佐々の諸城が

「安土城築城より15年以上さかのぼれる」との説が

出ているためだ。

 

20日にはこの説の評価を含め、

戦国・織豊期の九州の城郭を考えるシンポジウムが

福岡市で開催される。

 

2003年に従来の定説を翻す論文を発表したのは

小佐々氏の末裔、小佐々学・日本城郭史学会長崎支部長。

機関誌「城郭史研究23号」で、小佐々水軍の城郭遺構を、

独自の「平石横積」工法によって築かれた、曲線形や

半円形など大規模かつ多種多様な石造物が残る極めて

貴重な遺跡として紹介。

 

 

「戦う城」から権力を誇示するための「見せる城」に

変わった日本最古の城郭だ、として安土城を嚆矢(こうし)とする

織豊系城郭に先立つ事例と主張した。

 

08年に西ケ谷恭弘・日本城郭史学会会長らが編さんした

「城郭の見方・調べ方ハンドブック」では、

「安土城以前に築城された見せる城」として

 

小佐々水軍の諸城を紹介してもいる。

 

一方、小佐々水軍の城郭の石垣とされる石積みを

「近世以降の田畑の石積みにすぎない」とする見解も根強い。

 

木島孝之 ・九州大助教(日本城郭史)も

「曲輪の体をなしておらず、城の石垣とは考えられない」

と一蹴する。

 

 

九州における近世城郭の成立に、

安土城などの織豊城郭とは別の、独自の系譜が

考えられるのかどうか。

 

 

20日のシンポジウムでコーディネーターを務める

丸山雍成 先生(まるやまやすなり)・九大名誉教授(日本近世史)は

「小佐々水軍が拠点とした地域は早くから

キリスト教の宣教師が入った地域で、

少なくとも織豊以前からある程度の

高い石垣技術は持っていたはず。

先入観を排し、多角的な視点で、九州の近世城郭について

議論を深めていければ」と話している。

※西日本新聞記事より

 

以上が西日本新聞の記事でした。

 

私がシンポジウムで面白いと思ったのは

九州が、かつて「元寇」という恐ろしい

「外国からの侵略」を経験しているところ。

 

 

織田、豊臣の時代よりも前におこった元寇は

文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)という

2回の蒙古による襲来として教科書にも記されています。

 

日本の鎌倉中期に

当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)及び

その服属政権となった高麗王国が侵略してきた事件。

 

その恐ろしさは半端じゃなかったと思います。

今の時代で言うなら、宇宙人侵略?

それぐらい「未知との遭遇」です。

 

 

我こそは〜

などと言って闘っていた日本の武士に

いきなり、爆弾を投げつけてくる最強軍団。

 

これは、大変だと言う事で、九州の北部には

長く城郭のような元寇防塁を作っています。

 

 

高さ・幅は平均して2メートルあり、総延長は、

福岡市西区の今津から東の香椎までの約20km。

 

博多に住んでいるから感じますが、半端じゃない距離。

この時に最高の石工職人達が集まって

国を守るために城郭のような石の防塁を作ったのです。

 

ちなみに

作らせたのは「鎮西探題」と言う

鎌倉幕府が九州統括のために設置した機関。

場所は福岡市西区の愛宕神社と言われています。

 

いつも私が行っている

あの愛宕神社に「鎮西探題」あったことに驚きました。

確かにあそこからは博多が一望できます。

 

ここから外国からの侵略にそなえて、必死で

警備をしていたのですね。

 

シンポジウムの内容にもあったのですが

鎌倉幕府、建武政権、足利幕府にとって

元・高麗軍の襲来は脅威。

これを九州の鎮西御家人達は大きな負担をして

石塁を築いた。

そのために、九州には戦闘の折に石垣を利用することで

防御を強化する陣地が生まれることを

等しく学んだとのこと。

 

たしかに、他のエリアよりも常に危険と隣り合わせだった

九州はどこよりも特別な進んだ考え方になったと思います。

 

 

秀吉が築いた肥前名護屋城。

その遥か前に九州では城郭の技術が進んでいた・・・

いろんな空想をしながら、先生達のお話を聞きました。

 

本日は、わずかな時間でしたが

近世の城郭を考えるシンポジウムに参加して

本当に勉強になりました。

 

 

この他にも、伊派とよばれる石工がいたお話、

立花山と名島城の関係など

目からウロコな話ばかり。

 

普段、何も考えず生活している場所に

遥か昔、武士が命を懸けで築こうとしたものがあることを知り、

また違った楽しみ方を発見しました。

 

本日は、シンポジウムありがとうございました。

関係者の皆様に心より感謝いたします。

 

皆さんが生活している場所、

ひょっとしたら城郭の一部かもしれませんよ。

 

※参考資料:wikipedia 蒙古襲来絵詞、安土城図、

シンポジウム

「戦国・織豊期(しょくほうき)の

九州の城郭・肥前小佐々水軍城などの評価をめぐって」資料より

 

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